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劇的な出会い

劇的な、本との出会い、というものがある。

 

昨日は午前は非常勤講師、夜は家庭教師というダブルヘッダーの日で、午前の仕事を終えていったん家に帰り、簡単な昼食を済ませたあとで、仕事の道具とタブレットを持って、少し早目に家を出た。この夏に書こうと思っている文章のペースが、予定していたよりも遅れていて、どうにか今日中には構想をまとめたい、と、仕事の前にカフェで格闘するつもりだった。

 

さっき帰って来た道を今度は逆にたどって駅に向かう。いつも前を通る駅前の小さな書店の店先では、今日も古本のワゴンセールをやっている。その中の一冊に、目が吸い寄せられた。その本は、5年前に、四半世紀を過ごした関東を離れ、関西へ来るきっかけになった本のなかで、何度も引用されていた本だった。いつかは読まなきゃ、と思いつつ、記憶の片隅で埃をかぶったままになっていたのが、昨日、ワゴンの中でその本だけ光を放っているように見えた。実際、他の本は背表紙を上に向けて並べられているのに対して、その本は表紙が通りに見えるようにワゴンの縁に立てかけてあったので、書店員さんも価値ある本と、推していたのだろう。とにかく、その本と「目が合った」ように感じてしまい、思わず手に取り、購入した。

 

読み始めると、なぜこの本にもっと早くに出会わなかったのか、というくらい、読みながらこれまでの思考が一つに繋がっていくような感覚を覚える。ただ、なぜ今まで出会わなかったのか、というのは、まだ読む時機ではなかったのだろう、とも思う。今だからこそ、読む用意がある、というときに、必要な本は向こうからやってくる。さらに驚いたのは、読み進めていくと、思いがけなく、この夏にまさにわたしがその作品について書こうとしている当の作品についての論考が出てきたのだ。

 

思いがけない、というのもわたしの不勉強を露呈する間抜けな話で、もともと、関西に来るきっかけになった本で、この本が引用されていた文脈を考えれば、そのような論考があることは、思い至ってもよかったのだけれど、とにかくその一つの論考に、昨夜は完全にノックアウトされた。しかし、敗けて却ってやる気を起こすのも変なのだけれど、完全に敵わない、追いつくことのできない大きな背中が見えて初めて、自分の小さな一歩を踏み出せるということがある。今朝は、5時半に起きて、書き淀んでいた構想をなんとか書き上げ、まだ粗くはあるけれど、書く方向が少しずつ姿を現してきた。

 

「何が起こるかわからない」というのは、今、W杯がやっていることもあり、ここのところずっと考えていることだけれど、「何が起こるかわからない」から準備のしようがないのではなく、日々どのような準備をするのかで、呼び込むものごとが変わってくるのだと思う。犬も歩けば棒に当たる、ではないけれど、歩かなければ、出会うこともない。どのような心持ち、どのような身体の調子でいるのか。日々の準備が、センサーの感度を決めてゆく。そうして、意図を越えたところで幸運な出会いがあったとき、感謝の気持ちが湧く。清々しいほどに自分の小ささを知り、生きる喜びが湧く。

 

そんな、劇的な出会いだった。