「論壇時評」に寄せて

今日は、楽しみにしている、作家の高橋源一郎さんによる「論壇時評」の掲載日だ。「論壇時評」は、高橋さんが月に一度、朝日新聞に寄稿している連載だ。記事はコチラ→http://digital.asahi.com/articles/DA3S11209602.html?_requesturl=articles%2FDA3S11209602.htmlamp 朝日新聞デジタルで会員登録していたら無料で読めるのだけど、良記事をせっかくシェアしようと思っても、シェアした先でいざ記事を閲覧しようと思うと、例の、この先はログインして、というメッセージが出てくるのはわずらわしい。アレ、どうにかなんないものなのかな?(それとも、最近はそんなことないのカシラ。)

 

いきなり些末なところから始めてしまったけれど。そのわずらわしさをとっぱらうために、多少煩雑にはなるけど、なるだけ元記事を引用しながら、記事を受けて考えたことを書きつけておこうと思う。

 

 

今回の高橋さんの時評のタイトルは、<「アナ雪」と天皇制 ありのままではダメですか>というものだ。内容はというと、冒頭でまず、中森明夫氏によって「アナ雪」について書かれた文章の中で次の部分を引用している。

 

「あらゆる女性の内にエルサとアナは共存している。雪の女王とは何か?自らの能力を制御なく発揮する女のことだ。幼い頃、思いきり能力を発揮した女たちは、ある日、『そんなことは女の子らしくないからやめなさい』と禁止される。傷ついた彼女らは自らの能力(=魔法)を封印して、凡庸な少女アナとして生きるしかない。王子様を待つことだけを強いられる」

 

実は、わたしはまだ「アナ雪」を観ていないので、この部分を読んで、「へぇ、アナ雪って、そんな話なんだ~」という地点にいるわけなのだけれど、ただ、「アナ雪」の熱狂的な迎えられ方と、それを賛美する論調から、なんとなく「そのあたり」のことに触れた映画なのだろうなぁ、という見当はつけていた。もうすぐDVDが発売されるので、観るのを楽しみにしている。

 

 

話がそれた。

 

 

上で引用した文章のあと、書き手の中森氏は、実在する「雪の女王」として、「雅子妃殿下」のことを思い出す、と続けているという。雅子妃殿下が、職業的能力を封じられ、男子の世継ぎを産むことばかりを期待され、やがて心労で閉じ籠ることになってしまったことを指摘し、「皇太子妃が『ありのまま』生きられないような場所に未来があるとは思えない」と、その文章は結ばれているそうだ。高橋さんによれば、この中森氏の原稿は、依頼主である「中央公論」からは掲載を拒否されたとのこと。理由は定かでないそうだ。

 

この話を枕に、高橋さんは次に、最近出版されたという、戦後社会と民主主義について深く検討する本を話題にしている。その本とは、上野千鶴子の『上野千鶴子の選憲論』と赤坂真理の『愛と暴力の戦後とその後』だ。この二人の著書の中から文章を引用したあとで、高橋さんは次のように書いている。

 

 

この二つの本からは、同じ視線が感じられる。それは、制度に内在している非人間的なものへの強い憤りと、ささやかな「声」を聞きとろうとする熱意だ。制度の是非を論じることはたやすい。けれども、彼女たちは、その中にあって呻吟(しんぎん)している「弱い」個人の内側に耳を傾ける。それは、彼女たちが、男性優位の(女性であるという理由だけで、卑劣なヤジを浴びせかけられる)この社会で、弱者の側に立たされていたからに他ならない。彼女たちは知っているのだ。誰かの自由を犠牲にして、自分たちだけが自由になることはできないと。

 

 

雅子妃殿下に「雪の女王」を見る中森氏の直観と、二人の女性の制度内にある非人間的なものへの強い憤りとは、同じところを向いている。「日の丸」や「天皇」について何か言おうとすれば、すぐにヒステリックになったり、面倒事は御免だと遠ざけられたりする状況のあるこの社会の中で、一定の発言力のある人たちがそこへ眼差しを向けているのは、偶然ではないだろう。「人間」を「象徴」というよくわからないものにしてしまって、その内側からは声なき悲鳴が聴こえる。そのようなことに蓋をしながら、素知らぬ顔をして過ごしているかぎりは、この社会に民主主義の風が行き届くことはないということを、彼らは訴えている。

 

高橋さんは、この文章の最後には、現在、雑誌「群像」で連載中という、原武史氏の「皇后考」について触れている。その論考のなかでは、現在の「男性優位」の思想に基づく天皇制は、たかだかここ百数十年の歴史しかなく、古代天皇制では、「女性優位」ともいうべき思想だ底流として流れていたことが指摘されているという。そのことを書いたあとで、高橋さんはこのように言っている。

 

「男系男子」のみを皇位継承者とする「皇室典範」の思想は、「男性優位」社会のあり方に照応している。だが、その思想も、人工的に作られたものにすぎない。人工的に作られたものは変えることができるのだ。どのような制度も、また。

 

 

引用と要約でほぼページを埋め尽くしてしまったけれど、ここには、これまで、表立っては声に出されなかったけれど、この社会を考えるうえで非常に大事なことが書かれてあると、わたしは思う。当事者以外は、普段、「そういうもの」と思って、意識にさえ昇らないようなことに注意を向けてみると、意識に昇らない、という形でその制度なり思想なりに肩入れしている自分のあり方が浮かび上がる。無意識、というものはその名のとおり、人の意識の預かり知らないところで、その実、当人の思考や言動を決定づけてしまっていて、今回の都議会での発言にしても、それが、「深い考えから発されたこと」ではないからこそ、余計に厄介なのだ。一人の議員の口から、この社会が抱える幼稚さという病魔がごろりと吐き出されたといっても、大げさではないだろう。人工的に作られたものは変えることができる。自分自身の中に巣食う、思考という習慣も。