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『俺に似たひと』再読。

移動の電車の中や早朝のカフェで授業準備をして臨むという、自転車操業体制でなんとか年内の授業は乗り切ったが、あとまわしにしていた大量の採点作業が残っていたので、年末年始を過ごすための荷物に教材とプリントの束とを詰め込んできた。その他の荷物は、セーターが二着、デニムが一本、ルームウェア一着と下着の替えと、コンタクトと常備薬程度。荷物の半分以上は、本やらプリントやらで埋まっているのだけど、その中に一冊、この年末に読もうと放り込んできたのが、『俺に似たひと』だ。

 

年末年始のおともに、と持ってきたのだけど、いったん読み始めたら止まらず、一気に読んでしまった。一度読んでいるのだけれど、今読むとまた、言葉の入ってきかたがちがう。『俺に似たひと』は、著者による実父の介護の経験が、「俺」という一人称で語られている。語られている内容は介護の経験にはちがいないのだけれど、「俺」というフィルターを通して語られることは、ひと組の父と子の物語であり、「俺に似たひと(=実父)」と「俺」、それぞれの、生きてきた道程だ。

 

著者自身はあとがきで、「わたしはこの「物語」が、日本中の介護をしている人々や、これから介護に直面しなければならない人々にとってのいくばくかの参考になってくれればいいと願っています。」と述べている。もちろん、プラクティカルな介護の指南書としても、本書は当事者にとって心強い助けになるだろうし、実際にわたしも、これから幾度となくページを開くことになるだろうなぁという感じはしている。しかし、今回読み直して、わたしがより惹きつけられたのは、介護を通して露わになってくる「俺」の在り方だった。

 

たった四年かそこら、それも、高齢者介護ではなく身体障害者の介護という畑違いの自分が、何かをわかっているとは思わないけれど、それでも、介護の現場で感じてきたことを言葉にするならば、介護は、エゴとエゴのぶつかり合いの場である、ということだ。互いの思惑というものがあり、それが、皮膚感覚でお互いに伝わる。近づきすぎても窮屈になるし、遠すぎても人間味がない。なるべくニュートラルな状態で携わりたいと思っていても、相手も自分も人間なので、コントロールしようと思ったことは、たいがい頓挫する。良い介護をしようと思ったら、自分の心のあり方がまず、問題になる。

 

『俺に似たひと』では、「俺」が父の老いを目の当たりにしながら、老いや死という、誰にも訪れる生の過程についての言葉が綴られていく。老いは、治療や克服の対象なのか?という「俺」のつぶやきが、胸の深いところへ響く。死を遠ざけているかぎりは見えてこない地平に目を凝らすと、死によって照らされる生が、仄々と見えてくる。その生のあり方とは、例えば次のようなことだ。

人並みの生活をしていくために最低限しなくてはならないことはさほど多くはないが、それを毎日きちんと続けて習慣にするためには、結構多くのやりたいことを諦めなければならない。そして、この習慣にはそれだけの価値はあると思えるようになった。

 

「やりたいことを諦める」のは、不本意なことだろう。しかし、この、「俺」の言葉は、強がりには聞こえない。それは、ここに書かれてあることが、人が人であるということはどういうことであるかに、届く言葉だからなのだと思う。