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引っ越し作業の合間に。

先週で非常勤先の授業も終わったので、いよいよ引っ越しに向けて作業をせねばならないのだけれど、この寒さのせいで真冬のイモリのようになっていて一向に進まない。今週末にはぜんぶパッキングも終わった状態にしなくてはいけないんだけどな。終わるのかしら。今、この文章も、積み上げられた段ボールに囲まれながら書いている。土日に彼が来てくれて、とにかく梱包に必要なものを揃えなきゃ、といって車を出してくれたので、最寄りのコーナンで段ボールの小さめのを10個と中ぐらいのを3個買ってきたのだが、本を詰めただけで7箱になった。そこまでの作業を一気にやってへとへとになり、今は休戦中である。

 

段ボールに囲まれた部屋で、梱包途中の本に読み耽ってみたりしながら、ここ数日を過ごしているのだけれど、今日、アイフォンでツイッターを観ていたらヤマザキマリさんの「地球のどこかでハッスル日記」が更新されていた。

 

第20回 知らないおばちゃんとも打ち解けられたシリアの浴場よ!(ヤマザキマリの地球のどこかでハッスル日記) - 女性自身[光文社女性週刊誌]

 

毎回更新を楽しみにしているのだが、今回の内容もまた、ど真ん中というか、ここのところ、考えているようでグレーがかって、思考の形にならないようなものを、言葉にしていただいたような感覚を覚えた。

 

今回の日記で、ヤマザキマリさんはまず、ツイッターというツールは今や自分の日常にとって切り離せないものになっている、というところから話を始めている。いったん見出したら止まらない、その「ブラックホール」のごとき影響から、何度アカウント削除しようという意志をくじかれてきたことか、という嘆きのあとで、それでも、世界各国のありとあらゆる情報が瞬時にわかるという有為性や、同業者仲間のほっこりするようなつぶやきを横目にしながら仕事をすることの利点を書かれている。話はそのあと、しかし、と続く。

 

しかしさすがにこの数週間は、ツイッターやその他のSNSに対して前より寛容な気持ちでやり過ごすわけにはいかない事態がありすぎました。TLに砂漠に跪かされたオレンジ色の服の人の画像がアップされるのを目にしてしまった瞬間の、身体中に走る戦慄は形容し難いものがあります。画面越しに強制される恐怖感や悲しみ、怨嗟といったものは、発信元の連中が完璧に目論んだものであり、我々はまんまと彼らの思う壺にはまって動揺し、慌て、胸中に発芽してしまった苦い思いをなんとか緩和させようと躍起になる。

 

 

この部分を読んで、わたしは、自分がここ数週間抱いていた、あてどのない苦々しい気持ちがどこからきているのかを、はっきりと意識した。それは、流れてくる情報を目にし、動揺し、さらなる情報を追い求めるにしろ、情報を遮断するにしろ、自分の行動が「彼ら」によって左右された、ヤマザキマリさんの言葉を借りれば、「まんまと彼らの思う壺にはまって」しまったことへの憤りだった。実際のわたしは、事件の発生から、情報を遮断するという行動をとっていた。第一には、自分が情報を目にすることで受ける衝撃をかわしたかったからであるし、また、どこかで、「情報を見る」という行為が、「彼ら」に加担するようで、行為そのものに嫌悪を感じたからでもあった。情報を集め、何が問題になっているのかということを考えたり、政治的な発言に踏み込んだり、そうでなくても個人としての感想を発信する人たちのことを非難しようとは思わない。だけど、わたし自身は、少しでも「見せしめ」的な要素に演出された映像を、ちらとでも見ることは自分に禁じた。

 

実は今回のこと以前から、わたし自身はツイッターや他のSNS離れをしていた。アカウント削除はしないまでも、TLも自分でつくったリストのものしか見ないようになっていたし、facebookも長いこと放置している。わたしがSNS離れを起こした直接的な理由は、上の話と比べたらあまりにくだらないといえばくだらないのだけれど、SNSで偶然に、付き合っている相手の行動を知ってしまったことだった。共通の知人がアップした画像の中に彼が映り込んでいて、べつに、その画像自体はなんの変哲もない画像なのだけれど、そのころ、相手も自分も仕事が忙しくてなかなか会えていないなかで、映っていた画像がうちからすぐ近い場所で、ちょっと寄ることだってできただろうに、なんてことを思い出したら止まらなくなって、ウジャウジャとした気持ちになってしまったのだった。

 

それで、一つ前の記事に書いた、「同志」に、そのときもヘルプ!とメールをしたのだけれど、そうしたらその知人も、

 

「自分が相手を想う気持ち以外、必要な情報なんかあるか思て、アカウント削除してしまったわ!」

 

という男気溢れる返事が返ってきたのだった。そっか、やっぱり彼のような大人でも乱されることはあるんだな、という安堵の気持ちと(「同志」の彼はわたしよりも10歳ほど年上)、それは賢明な選択だな、と思った。

 

いきなり話が、卑近な、それも生々しい話に逸れていってしまったけれど、そういうこともあって、SNSとはつかずはなれずの距離をとっていたところだったのだ。そこへ、今回のような、情報のツールを最大限、最悪な方向へ利用する事件が起こり、情報の持つ暴力性に対して無防備でいてはだめだ、という想いを強く持った。ちょっと立ち止まって、生きていくのになくてはならない「情報」って、どのくらいあるのだろうと考えてみる。試しに、1週間、あらゆるSNSを見ない、ということもやってみたことがあるが、生存していくのに困ることは、まったくなかった。ただ、不必要な情報を遮断する、というのと、臭いものに蓋をする、ということも、分けなくてはならないと思う。知りたいことがあるときに、やっぱりSNSは便利だし、使わない手はない。でも、無限にある情報の中で、恐怖心を植え付ける目的であったり、脅しをかけることが目的であるような情報は、情報としての価値がないと、きっぱりと切り捨てる判断は、持っておいたほうがいい。

 

 

今回のヤマザキマリさんの記事は、最後にシリアの公衆浴場での、オバちゃんたちとの裸の付き合いのエピソードで締めくくられている。

 

普段は顔しか見えない衣装に身を包んでいるシリアの女性たちが、浴場ではみな素っ裸になって(パンツははいていましたが)、開放感に充ち満ちた表情で寛いでいるその光景を目の当たりにしたときの驚きと感動は忘れません。私は、アラビア語はいっさいできませんが、そのオバさんの家族・親戚グループに混ぜられ、話の内容がわからなくても雰囲気に合わせて一緒に笑ったり、ピクニックのようにそこに広げた食べ物を食べたり、背中を擦ってもらったりして楽しいひとときを過ごしました。

 

 

幸福な光景だ。その公衆浴場があった街が、今ではほとんどが瓦礫と化してしまって、浴場も無事で残っているかはわからない、ということも書き添えられていたけれど、ホカホカのお風呂で裸で睦み合う女性たちの姿が、目に浮かぶようだ。このことからわたしが思うのは、とても素朴なことだけれど、生身のやりとりを大事にしたい、ということだ。そして、このように文章を書きつけるときでも、文章に限らず、何かを発信するときでも、なるだけ、体温の乗ったやりとりを心掛けたいということだ。脅しや、恫喝の道具としてではなく、励ましや笑いや祈りを届ける道具として、丁寧に言葉を綴り、発し、人と関わっていきたい。