穴を掘る。

今日は、今のアパートに引っ越してきたときに運び入れたまま、ずっとその場所から動かされずにいた段ボールの中身をあけて整理した。毎回引っ越しのたびに片づける時間がなくなって、しまいには、「引っ越した先で捨てるか判断すればいいか」と思って、結局使わないものも一緒に引っ越すことになるのだけど、この段ボールも、そのひとつというわけだ。でも、さすがに今回は、ちょっと身の回りをきれいにしていきたい、という思いもあり、とにかくできる限りは処分しようと、この一週間、のろのろとがんばっている。

 

段ボールの中からは、除光液が半分だけ入った瓶や使いかけの乳液、丸いピンの入ったケースや公演のチラシなど、ありとあらゆるものがごちゃ混ぜになって出てきた。そのなかに、しばらく見ていなかった写真や葉書やらも混ざっていて、すっかり思い出すこともなくなった記憶が急に蘇り、そのたびに作業の手が止まった。大学時代のほとんどを捧げたサッカー部時代の写真の自分はおどけた顔ばかりをしていて、ずいぶん力んで生きてたんだなぁと、舌を突き出して顔をくしゃくしゃにしている当時の自分を見つめた。一緒に写っている奴のなかには、そのあと専門学校に入り直してトレーナーの知識と技術を身につけ、この春に自分たちのクリニックを開こうとしている奴もいるし、人の親になっている奴も、何人もいる。また別の葉書は、中学校から今でも連絡を取り合っている子からきたもので、その子はその葉書のあとの人生で、世界一周の船旅へ出かけたあとで、彼女の帰りを港で馬のお面をかぶって待ち構えるユーモラスな旦那と結婚した。それから、わたしが博士課程に在籍していたときの後輩が、修士論文を書き終わったあとでくれた手紙も出てきて、そこには修論での苦労と、どれだけわたしに助けられたのか、ということが、びっしりと生真面目な字で綴られていて、助けられていたのはこっちのほうだなぁと改めて思ったりもした。その後輩も、今では一児の母で、先日その子どもをこの手に抱いたところだ。

 

もちろん、わたしの上にも時間は降り積もっていて、ずっと何かを探すように必死に20代を駆け抜け、30代に入ったところで、少し立ち止まった。出会うことの中から、これ、と思うことに飛び込んできたけれど、人生で「試す」ことができるのは、そう無限にできることではないのだ、という、当たり前のことに気がついた。そこから、少しずつ、手放すものを整理してきた。その中には、それまでの人生で、埋めよう、埋めようとしていた「穴」のようなものも混じっていた。けれど、残りの人生を、その「穴」を埋め立てることに費やすのは、イヤだな、と思った。人生は、穴埋めのためにあるのではないし、実際、ある出来事を、べつの出来事で埋め合わせるってことは、できないことだ。でも、今を生きることは、できる。穴を埋めるためではなく、昔の人が、こつこつと岩やら石やらを運んだら、そのうちに大きな古墳ができたように、何かを産み出すために、穴を掘りたい。漠然とした話だ。でも、漠然としているからといって、それが何もしない理由にはならないし、自分にできることを、こつこつとやるところからしか、始まらないのだ。まず櫂より始めよ、だ。まずは無事に引っ越さなくちゃなぁ。