「塵のようなもの」

週一の更新を目指すと言いながら、早速3週間もあいだが空いてしまいました。こ
の期間にもいろいろあり、気がつけば妊娠も8か月目に入り、いよいよ身体も重た
く、通勤時の駅構内はキョーフ以外のなにものでもなくなってきました。それから
、昨年の秋にパートナーのハハが倒れ、妊娠がわかり、引っ越しがあり、在宅介護
が始まり...というバタバタの中で、はなから式を挙げる予定はかったものの、籍は入れようかと話していたのがのびのびになっていたのを、やっと籍も入れました。


そうしたら、籍を入れた途端に、いままで喧嘩らしい喧嘩をしてこなかったパート
ナーと険悪になる、ということがありました。もともとは、わたしの中にあった一
点の染みが、放置しているうちにほかのアレもコレも招き寄せ、気がついたときに
は無視できないぐらいに、あちこち傷んで、ボロボロになってしまっていたのでし
た。


いつも仕事の日は、帰宅したらすぐに食事の支度にとりかかり、食事のあとは、後片付けやほかの家事をして、21時にハハのパッドを交 換するというのが、4月からずっと続けていることなのですが、その日は仕事から帰ってきたあと、どうしても動くことができず、頭では、そろそろ準備を始めな いと、と思っているのだけど動けない。そうこうしているうちに、ハハの手元には 、何かあればいつでも押せるよう呼び出しボタンがあるのだけど、その呼び出し音 が鳴る。キッチンはハハの居室のすぐ隣になっていて、ハハは、夕飯どきが近づい てキッチンの明かりがついていないと不安になるらしく、だいたいそのタイミング で呼び出し音が鳴ることが多いのだけど、このときは、その呼び出し音がきっかけ となって、わたしの中の、張っていたものがふつりと切れて、おいおいと泣き出し てしまいました。


その日は月曜日で、毎週日曜には豆カレーをつくるのが定番になっており、わたし
が、おいおい泣き出して動けなくなってしまったので、パートナーはとりあえず、
ハハのぶんのカレーを温めて出してきてくれ、そのあとで、二人でゆっくり話をし
ました。泣きに泣いて、話をしているうち、少し落ち着いたらお腹が減ったので、
今からつくるんじゃしんどいでしょ、といって、二人でラーメンを食べに行き、帰
ってきてからまた話の続きをしました。


身体が思うように動かなくなって、これまで普通にできていた動作や仕事がしんどいこと、それでも、ただでさえわたしの体調を気遣って、わたしが介助することを申し訳ながるお義母さんの前では平気な様子をしているのにも、けっこう神経を使うこと、うちにヘルパーさんや、パートナーの仕事の手伝いの人が出入りするなかで、オンとオフの切り替えがうまくできずに、つらくなってしまっていたこと、それでも、自分のことは自分でやらなければ、と思い込んでいたこと...口に出せば、あとからあとから出てきたけれど、ひとつひとつは、渦中にいると、「こんなことぐらいで...」と、自分で引っ込めてしまうような、そんな「塵のようなもの」が積もり積もって、苦しくなってしまっていたのでした。

 

ひととおり話を聴いていたパートナーが、ぽそりと、「...いわゆる介護疲れじゃん」と言うのを聴いて、わたしも、もう出すもんもないぐらい泣いたあと、冷静になった頭で、そうだな、と思いました。わたしは仕事で介護をしていたこともあり、またパートナーも、父親を介護して看取っているので、ふたりとも、抱え込むことはよくないと知っているはずなのに、いくら知識としてあっても、介護が日常になると、ついつい、自分が抱くちょっとしたストレスや心の動きを、「塵のようなもの」と、自分で軽く見てしまい、知らずにそれが降り積もっていってしまう。しばらく前から、介護疲れが原因の事件などもよく聞くようになって、そのたびに、「なんでそうなる前に相談できなかったんだ」と言われることがあるけれど、渦中の人は、ほんとうに、追いつめられるまで気がつけないようなことが、あるのだと想像します。


介護とはちがうけど、わたしが好きな田房永子さんが、『ママだって人間』のなかで、赤ちゃんが産まれたあと、自分がそれまでの自分ではなく、「マリオネット」になったみたいだ、という様子を描かれていて、赤ちゃんから離れたくないんじゃなくて、離れ方が分かんなくなるだけ、だから、パートナーやまわりには、グイグイ入ってきてくれないと困る、入ってきてくれると助かる、ということを言っていて、これと同じことは、介護の現場でもそうだなぁ、と。


自分がそのときにどっぷりと浸かっている日常から、ムリにでも引き剥がして、ちょっと、息吸ってこい!というような介入が、どれだけ救われるか。「ちゃんと必要な助けを求めましょう」ということも一理はあるんだけど、そういう回路が開かなくなってしまう状況があるんだ、ということも、「当たり前」のこととして語られてほしい。


わたしは、ひさしぶりにパートナーと外で二人で、ちょっとジャンキーなラーメンなんかを食べられたことが気分転換になって、次の日からは憑き物が落ちたようでした。「それぐらいのこと」が、とっても救いになる。それがちょうど一週間ほど前の話で、そして、話してみてわかったのは、パートナーも、かなり息が詰まる想いをしていたこと。それで、今日はちょっと息抜きしてきなよ、とぶらりと出かけていきました。わたしはわたしで、来月からは仕事も休みに入り、巣籠りに入るので、うちで過ごす環境をあれこれ整えたりして過ごしています。ひとのお世話をしながら見えてくるのは、自分の、自分に対する取扱い方だったりして、自分のトリセツをつくるような気持ちで、文章を書いています。


さて、今日は日曜日なので、豆カレーをつくるぞ。