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つながりの中で、生きる。

 
1月14日放送のETV特集、「認知症とともに よく生きる旅へ ~丹野智文42歳~」を観た。

http://www4.nhk.or.jp/etv21c/x/2017-01-14/31/28969/2259556/

 

 

39歳で認知症と診断された丹野智文氏が、英国の認知症当事者たちのもとを訪ね、 当事者が中心になって行ってきた運動や英国での支援の在り方につ いて話を聞くという内容だった。診断直後からの、 当事者と必要な支援先を結ぶ「リンクワーカー」 による支援の実際や、 イギリスやスコットランドでの当事者の生きる姿も鮮烈だったけれ ど、途中で映ったごく短い場面で、 認知症の理解を広めるためのイベントに参加していた少年が参加の 理由を問われて、「ともだちのおばあちゃんが認知症だから、 支援してほしいって思って」と何気なく答えていて、 とてもいいなと思った。彼らが自然体であることが、 認知症の当事者が、 地域で家族や社会との繋がりを断たずに暮らしていることを何より も豊かに語っているように思えた。

 

 

放映のあとで、丹野氏のインタビュー記事を見つけたので、 そちらも読んでみた。

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/238739/120900098/?rt=nocnt&ST=smart

 

インタビューでは、丹野氏が認知症を告知された当時、 周囲の無理解に苦しんだ経験が語られる。 職場で同僚に病気のことを話しても、「俺も物忘れするし、 人の顔忘れるよ」という反応が返ってきて、 物忘れのレベルがちがう、 ということがなかなか理解されなかった、ということだ。

 

 

ワタシたちはつい、ものごとを、 自分の理解できる範囲で考えてしまう。 たとえ励ますつもりの言葉でも、「自分にもそういうことはある」 という言葉の裏側には、「だから大丈夫」とか「 努力次第でなんとかなる」という短絡が隠れていて、 そういうこととはまったくちがう次元の話だということへ想像力を 働かせることを怠けてしまう。

 

 

このブログで何度か触れたが、 義母は脳出血の後遺症で軽度の記憶障害がある。 昔のことは鮮明に覚えていても、短期記憶がもたず、 同じことを何度も聞かれたり、 そのたびに同じ説明を何度も繰り返したり、ということが、 在宅介護を始めてから日常となった。

 

 

頭では、それが後遺症であるとわかっていても、 たった今の出来事をウソのようにまるごと忘れてしまい、 まったく同じ質問をされたりすることが続くと、 ついイライラしてしまうときがある。それはオットも同じで、 オットは実の母親であるだけに余計に、「 なんでそんなことが覚えられないんだ」 という想いがどうしても湧いてしまって、 本人に対してつらく当たってしまうこともしばしばだった。

 

 

「さっきも言ったやろ」と言われた義母は困惑の表情を浮かべ、 つらく当たってしまったオット自身も、 自らの言葉に傷ついているように見えた。そういう場面が、 一歳児も義母もともに食卓を囲む場で起こると、 やり場のない雰囲気になってしまう。それが嫌で、 どうするのが本人にとって、 それから家族にとって一番いいのだろうと考えるようになり、 それからワタシは少しずつ、認知症について調べ始めた。

 

 

義母は、正確には認知症と診断されたわけではないのだが、 医師から、 記憶障害の現れ方は認知症とよく似ているという説明を受けたこと をオットから聞き、 とりあえず認知症関連の本を何冊か読んでみることにした。 実際読んでみると、 義母の症状とよく似た症状が紹介されていたり、 介護をする側が同じようなことで悩んでいることも分かった。 その中で、「本人の努力でどうにもならないことについて、 責めない」という文章に出会った。頭で分かっていたつもりでも、 実際に言葉にされるとそれだけで救われ、 落ち着くということがある。オットとも、本を間に置いて、 つい湧いてしまう自分の衝動的な感情と、 実際の振る舞いについて話をして、 ついつらく当たってしまうけど、 それは本人のためにはならないということをお互いの共通理解にで きたおかげで、以前よりワタシもオットも、 同じような場面になっても苛立ちをそのままぶつけてしまうことな く、ひと呼吸置けるようになった。

 

 

話を丹野氏のことに戻すと、丹野氏のように、 当事者自らが自分の症状について相対的に捉え、 発信しているというのは貴重なことで、 そこからワタシたちが学ぶことは多い。実際に丹野氏は、 病気が発覚してからも元の職場で仕事を続けていて、その際に、 自分にできることとできないこと、 工夫をすればできることや必要な援助を周囲に理解してもらい、 今も変わらず働き続けているそうだ。

 

 

しかし、当事者が、 自分の症状を周囲にもわかるように発信するというのは、 相当にエネルギーのいることだと思う。自分自身でさえ、 病気になったからといって急にその病気についての専門家になるわ けではないのだから、 まずは自分が病気である事実を受け止めることだけでもたいへんな ことだ。それでも、発信をしなければ、 工夫や援助があれば可能になることまでができなくなってしまい、 病気に対しての差別や偏見に苦しむことにもなってしまう。

 

 

丹野氏の番組やインタビューを読む中で、 ワタシは自分がこれまでに関わって来た重度の身体障害を持つ人た ちのことを思い出していた。彼らもまた、 自分に必要な支援は何か、 ということについてかなり明確に指示をできる人たちだった。 それは、彼らがそういう性格だから、とか、 自然にできることではなく、 物心ついたときには人の力を借りなければままならない自分の日常 生活という現実があって、その中で、その時々の介護者( 肉親や看護師、介護師)の、操られるままにはならない、 という強い意志のもと、 不断の努力によって獲得してきた思考であり伝える力であると思う 。

 

 

しかし、高齢者の介護では、また勝手がちがう。特に、 義母の場合のように何の準備もなくある日突然脳出血で倒れ、 意識が戻ったときには半身麻痺で車椅子生活をしなければならない 、ということを突き付けられたとき、 自分の置かれた状況を把握し、 これからどうやって生活していくのか、 どうやって生きていきたいのか、 ということを考えることは非常にむずかしい。ワタシは、 これまでに上記のような重度の身体障害を持つ人たちとの関わりが あったので、介護にはそれなりに覚えがあるつもりで、 だからこそ義母が倒れたときオットとともに在宅介護の道を選んだ という経緯があるのだが、実際在宅介護を始めてから、 今まで自分が関わってきた介護といちばん大きくちがうと思ったの が、この、当事者が状況から置いてきぼりになってしまう、 ということだった。

 

 

本人がとても先のことを決められる状態じゃないうちから、 家族は「これから」のことを考え決定しなければならず、 本人とじっくり話す間もなく周りが良かれと思う生活がスタートす る。自分の預かり知らないところで、 自分のことがどんどんと決められていくというのはどういう心持ち のすることだろう、とワタシなどは思ってしまうのだが、 義母本人は、「みなさんのいいようにして下さい。」 と言うばかりで、それをワタシは、 なんとなく物足りなく思っていたのだった。

 

 

でも、80年の間、自分の足で行きたいところへ行けて、 寝起きも食事も自分の好きなタイミングでできて、 という日常を送って来た人が、急に介護される側になって、 毎日の生活のちょっとしたことにでも人の手を借りなければならな くなったとき、毅然と自分の尊厳を保ちながら、 介護者に対等に振る舞える人がどれだけいるだろう。「 自分は何もできなくなってしまった」「 迷惑ばかりかけて申し訳ない」 という思いに持ち堪えるのに精一杯な人には、「 どうしたいですか?」という一見善意の問いかけが、 重いことだってあるのだ。

 

 

どうすれば、その人が、ただそこにあるということを、 喜びの中で生きることができるのか。本人の意志を無視して、 まわりの都合で当事者の生活を「管理」するのもちがうし、逆に、 本人にどうしたいのか、質問を丸投げにして、 まわりが考えることを放棄するのもちがう。 英国での例や丹野氏の生き方から学べることは、どのようにして、 人とつながっていくか、ということだと思う。 診断初期から専門家や必要な援助との橋渡しになるリンクワーカー の存在、同じ当事者同士の自助グループ、 それから仕事をしていたなら、仕事先の同僚や上司との関係、 それから地域の人々、家族―そういう、 複数の人との関わり合いの場を持つこと自体が、 本人のハリになり、生きる縁となる。ETV特集で、 英国での当事者たちの集まりで、 自分自身の病や老いを彼ら一流のユーモアに変えて、 仲間と笑っていた人たちの顔が忘れられない。