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カレーに祈りを。

 
2月の或る日曜日、友人夫妻の出店するマルシェへ行ってきた。

 

 

…今、「マルシェ」なんて何気なく使ったけど、いまだに、 この手の言葉を使うのには少しのこそばゆさがある。エ、 そんなの、フツーに使われてるじゃん、 と言われればその通りなのだけど、 少なくともワタシがこの言葉を初めて知ったのは5年前ぐらいのことで、当時裏方として出入りしていた劇団で「 今度稽古場でマルシェをしよう!」 という企画が持ち上がったときに、「マル...え、なんて?」 とまったくピンとこなかったことを覚えている。そのとき後で調べて、マルシェっていうのはフランス語で「市場」 って意味らしいと知り、そうか、市を開くのか、 それならなんとなくわかるぞ、という、21世紀ニッポンを生きる 20代女子らしからぬ納得の仕方をしたのだった(でも、実際に「 市」ってことだって、ワタシはろくに知らない)。

 

 

そういう面倒くさい、 誰向けへかわからない屁理屈のような思考を前置きにしてやっと「 マルシェ」と口に出しているので、言葉にしていても常に、 ワタシの中ではかぎかっこつきで発声しているのである。聞いている人にはそんなことわからないだろうけれど。

 

 

これだけ屁理屈をこねといてなんだが、その日の「マルシェ」を、 ワタシはとってもとっても楽しみにしていたのだ。結婚して、 山の中へ引っ越して、義母の介護を始めて以来、 なかなかひょいと外に出ることがむずかしくなった。 娘が産まれてからは、それがさらにむずかしくなった。 それまで顔を出していた数少ない集まりにまったく行けなくなり、 年賀状で生存確認をするようなここ二年であった(それも、 ごく一部の人々と)。今年の年明け早々には、20年来の友人の結婚式があり、 これはどうしても出席したいと何カ月も前からオットと相談してい たのだが、それも結局行かれなかった。ぎりぎりまで迷ったが、 在宅介護に一歳児のお世話に、 会場が新幹線で3時間かかる遠方であること、 そしてこれが一番大きいのだけれど、 妊娠7カ月というファクターまで加わったので、 大事をとって泣く泣くキャンセルしたのであった。

 

 

そこへ、 ふだんは我が家よりもさらに山深くに住んでいる友人夫婦が、うちから車で10分のビルで行われる「マルシェ」へ出店するという。 これはもうぜったいぜったいぜったい行きたい、と、 その日を指折り数えながら、 なんとかその日に外に出られるように算段を立てた。 子育て中のお母さんたちのほとんどが苦労していることだと思うが 、まずは「その日のご飯をどうするか」問題。友人の出店する「 マルシェ」へは、 オットも子どもも一緒に連れだって行こうと考えていたが、 外食はうちの野性味溢れる一歳児にはまだ不可能、 帰って来てすぐに温めて食べられるもの、というと、 ベストアンサーは、カレー、だ。

 

 

我が家の一歳児は歯が生えてくるのが早かったのと、 ワタシが楽をしたかったので、 一歳前後からほぼオトナたちと同じ食事をしているのだけど、 カレーも、 ルーだけは子ども向けのものを使うだけで喜んで食べてくれる。「 これだけは食べてくれる」というメニューがあることは、 どれだけ助かることか。そこまでには、 これならどうかと試行錯誤してはゴミ箱行きかワタシの脂肪になっ た離乳食の数々があったのだよ…と、 この話はしようと思えばまた長くなるのでここではこれぐらいにしておく。

 

 

とにかく、帰ってからすぐに食べられるようにと、 前日からカレーを仕込んでおいた。

 

 

しかし、問題は、「不確定要素」の方である。前日まで、 会場までの道順と駐車場を確認し、 友人にオムツ交換できる場所はあるのかを聞き、日々更新される「 マルシェ」 のサイトの写真を見ながら会場内の移動は抱っこかベビーカーかを検討し...と、そこまでしてもなお、前日、いや、 当日になっても、「ほんとにいけるのか!?」 とどぎまぎしていた。

 

 

これも、子育て中のお母さんには共感してもらえると思うが、 まずは子どもの体調である。子どもというものは、 まったく突然に熱を出したりするものである。 その場合はまァしかたがないな、という覚悟を、 お母さんたちはいつでも持ってる。そしてそれに加えて、 義母の体調である。在宅介護もそろそろ丸二年になろうか、というところだが、その間、ヘルパーとデイとケアマネと連携して、 義母の規則正しい生活リズムをつくってきたおかげで、義母の排泄のリズムは退院当初よりもかなり安定していて、「 不意に介護が必要になる」という状況はかなり少なくなってきた。それでもやっぱり、「絶対」 といえることはないので、何かあったときのために、義母の在宅時はワタシも必然的に家にいることになる。だかからこそなかなか外へ出られなかったのだが、最近の様子だったら2時間ぐらいだったらいけるんじゃないかという見込みで、この日の「 マルシェ」行きを計画したのだった。

 

でも、やはり、しかし、である。どこかで、「やっぱりね!」 と予期していたところもあったような気もするけれど、 この日の早朝、ワタシが朝食準備をしている最中、 しんと静まり帰った家の中でチャ~ララ~ララ~ラ~ラ~ラ~♪ というメロディが響き渡った。これは、 義母の手元にあるボタンを押すと台所とオットの作業場に置いてあ る受信機で信号を受信してメロディが鳴る仕組みで、緊急に用事のときにいつでも鳴らせるようにと、在宅介護開始当初から設置してあるものだ。最近は出番が減っていたとはいえ、これが鳴ると「ホイきた、 なんだなんだ!」と、途端に自分の頭がハプニングへの対処モードに切り替わる。この朝も、「今日にかぎって…」とか思うよりも先に「ハイハイ! 」と身体が動いて義母の居室へ向かった。 在宅介護の日常というのは、 こういうことへの備えがいつでもあるという状態が「常」 になることである、と言えるかもしれない。

 

 

義母の居室へ行って便失禁の片づけをしつつ、 今度は一歳児の起きてきた気配がしたのでそちらはオットに頼んで 、まだ出るかもしれないという義母をポータブルトイレへ座らせ、 途中だった朝食の支度を整えオットと一歳児には先に食べててもら う。 自分もぱぱっと納豆ご飯と味噌汁をかきこんでから再び義母の居室へ行き、 義母をポータブルトイレからベッドへ移乗し新しいパッドをし直す 。そうこうしているうちに朝のヘルパーの来る時間になったので、 朝の様子を伝えて、 いつものように清拭や身支度を整えてもらうようお願いする。

 

 

この時点で、朝の8時。11時開始のマルシェに行くには10時半に家を出たい。幸い一歳児は元気そのものだ。まだじゅうぶん時間がある、 という計算をして、今度は一歳児がEテレを観ているあいだに自分の身支度を整える。それが済むと、一歳児を着替えさせて、 それからもし「マルシェ」で何か食べることになったり、 帰って来るのに時間がかかった場合に備えて一歳児用と義母の賄い用にしらすのおにぎりをにぎる。そしてデカいリュックサックに、 おむつと着替えとウェットティッシュに、 タオルや飲み物やしらすのおにぎりやらを詰め込んで、 義母のベッドのテーブルにふせんのメモつきのおにぎりを置いて、 準備は整った!

 

 

外に出てみると、 前日まで雪が降るかもしれないという予報だった天気(これも、「 不確定要素」のひとつ)は、青い青い空で、キラキラしていた。 なんというか、何日も前から家を出られるように準備をして、 前日に「不意のこと」 が起きないように祈りをこめながらカレーを煮込み、 当日もやっぱりフル回転、を経ての青空が、うれしい。 今の生活になってから、「何気ないこと」 のありがたみが身に染みるばかりで、天気がいいとか、 散歩中にきれいな花があったとか、 そういうことが自分で驚くぐらいうれしかったりする。 全身でワクワクしながら「マルシェ」へ向かってみたら、 さらにうれしいことに、この日ひさしぶりにワタシが「シャバ」 に出てくるというので、 出店する友人夫婦以外にも友人たちが集まってきてくれていて、 顔の筋肉が痛くなるぐらいニコニコしてしまった。

 

 

「人と人が顔を合わせて、話ができるって、 それだけでキセキみたいなことなんだよ!」 と誰彼かまわずつかまえて訴えたいような気分に駆られたが、 さすがに自制したかわりに、ここに書いておく。

 

 

結局、出先で食べずに持って帰ったしらすおにぎりに、カレーをかけて食べたらおいしかった。
 
 

つながりの中で、生きる。

 
1月14日放送のETV特集、「認知症とともに よく生きる旅へ ~丹野智文42歳~」を観た。

http://www4.nhk.or.jp/etv21c/x/2017-01-14/31/28969/2259556/

 

 

39歳で認知症と診断された丹野智文氏が、英国の認知症当事者たちのもとを訪ね、 当事者が中心になって行ってきた運動や英国での支援の在り方につ いて話を聞くという内容だった。診断直後からの、 当事者と必要な支援先を結ぶ「リンクワーカー」 による支援の実際や、 イギリスやスコットランドでの当事者の生きる姿も鮮烈だったけれ ど、途中で映ったごく短い場面で、 認知症の理解を広めるためのイベントに参加していた少年が参加の 理由を問われて、「ともだちのおばあちゃんが認知症だから、 支援してほしいって思って」と何気なく答えていて、 とてもいいなと思った。彼らが自然体であることが、 認知症の当事者が、 地域で家族や社会との繋がりを断たずに暮らしていることを何より も豊かに語っているように思えた。

 

 

放映のあとで、丹野氏のインタビュー記事を見つけたので、 そちらも読んでみた。

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/238739/120900098/?rt=nocnt&ST=smart

 

インタビューでは、丹野氏が認知症を告知された当時、 周囲の無理解に苦しんだ経験が語られる。 職場で同僚に病気のことを話しても、「俺も物忘れするし、 人の顔忘れるよ」という反応が返ってきて、 物忘れのレベルがちがう、 ということがなかなか理解されなかった、ということだ。

 

 

ワタシたちはつい、ものごとを、 自分の理解できる範囲で考えてしまう。 たとえ励ますつもりの言葉でも、「自分にもそういうことはある」 という言葉の裏側には、「だから大丈夫」とか「 努力次第でなんとかなる」という短絡が隠れていて、 そういうこととはまったくちがう次元の話だということへ想像力を 働かせることを怠けてしまう。

 

 

このブログで何度か触れたが、 義母は脳出血の後遺症で軽度の記憶障害がある。 昔のことは鮮明に覚えていても、短期記憶がもたず、 同じことを何度も聞かれたり、 そのたびに同じ説明を何度も繰り返したり、ということが、 在宅介護を始めてから日常となった。

 

 

頭では、それが後遺症であるとわかっていても、 たった今の出来事をウソのようにまるごと忘れてしまい、 まったく同じ質問をされたりすることが続くと、 ついイライラしてしまうときがある。それはオットも同じで、 オットは実の母親であるだけに余計に、「 なんでそんなことが覚えられないんだ」 という想いがどうしても湧いてしまって、 本人に対してつらく当たってしまうこともしばしばだった。

 

 

「さっきも言ったやろ」と言われた義母は困惑の表情を浮かべ、 つらく当たってしまったオット自身も、 自らの言葉に傷ついているように見えた。そういう場面が、 一歳児も義母もともに食卓を囲む場で起こると、 やり場のない雰囲気になってしまう。それが嫌で、 どうするのが本人にとって、 それから家族にとって一番いいのだろうと考えるようになり、 それからワタシは少しずつ、認知症について調べ始めた。

 

 

義母は、正確には認知症と診断されたわけではないのだが、 医師から、 記憶障害の現れ方は認知症とよく似ているという説明を受けたこと をオットから聞き、 とりあえず認知症関連の本を何冊か読んでみることにした。 実際読んでみると、 義母の症状とよく似た症状が紹介されていたり、 介護をする側が同じようなことで悩んでいることも分かった。 その中で、「本人の努力でどうにもならないことについて、 責めない」という文章に出会った。頭で分かっていたつもりでも、 実際に言葉にされるとそれだけで救われ、 落ち着くということがある。オットとも、本を間に置いて、 つい湧いてしまう自分の衝動的な感情と、 実際の振る舞いについて話をして、 ついつらく当たってしまうけど、 それは本人のためにはならないということをお互いの共通理解にで きたおかげで、以前よりワタシもオットも、 同じような場面になっても苛立ちをそのままぶつけてしまうことな く、ひと呼吸置けるようになった。

 

 

話を丹野氏のことに戻すと、丹野氏のように、 当事者自らが自分の症状について相対的に捉え、 発信しているというのは貴重なことで、 そこからワタシたちが学ぶことは多い。実際に丹野氏は、 病気が発覚してからも元の職場で仕事を続けていて、その際に、 自分にできることとできないこと、 工夫をすればできることや必要な援助を周囲に理解してもらい、 今も変わらず働き続けているそうだ。

 

 

しかし、当事者が、 自分の症状を周囲にもわかるように発信するというのは、 相当にエネルギーのいることだと思う。自分自身でさえ、 病気になったからといって急にその病気についての専門家になるわ けではないのだから、 まずは自分が病気である事実を受け止めることだけでもたいへんな ことだ。それでも、発信をしなければ、 工夫や援助があれば可能になることまでができなくなってしまい、 病気に対しての差別や偏見に苦しむことにもなってしまう。

 

 

丹野氏の番組やインタビューを読む中で、 ワタシは自分がこれまでに関わって来た重度の身体障害を持つ人た ちのことを思い出していた。彼らもまた、 自分に必要な支援は何か、 ということについてかなり明確に指示をできる人たちだった。 それは、彼らがそういう性格だから、とか、 自然にできることではなく、 物心ついたときには人の力を借りなければままならない自分の日常 生活という現実があって、その中で、その時々の介護者( 肉親や看護師、介護師)の、操られるままにはならない、 という強い意志のもと、 不断の努力によって獲得してきた思考であり伝える力であると思う 。

 

 

しかし、高齢者の介護では、また勝手がちがう。特に、 義母の場合のように何の準備もなくある日突然脳出血で倒れ、 意識が戻ったときには半身麻痺で車椅子生活をしなければならない 、ということを突き付けられたとき、 自分の置かれた状況を把握し、 これからどうやって生活していくのか、 どうやって生きていきたいのか、 ということを考えることは非常にむずかしい。ワタシは、 これまでに上記のような重度の身体障害を持つ人たちとの関わりが あったので、介護にはそれなりに覚えがあるつもりで、 だからこそ義母が倒れたときオットとともに在宅介護の道を選んだ という経緯があるのだが、実際在宅介護を始めてから、 今まで自分が関わってきた介護といちばん大きくちがうと思ったの が、この、当事者が状況から置いてきぼりになってしまう、 ということだった。

 

 

本人がとても先のことを決められる状態じゃないうちから、 家族は「これから」のことを考え決定しなければならず、 本人とじっくり話す間もなく周りが良かれと思う生活がスタートす る。自分の預かり知らないところで、 自分のことがどんどんと決められていくというのはどういう心持ち のすることだろう、とワタシなどは思ってしまうのだが、 義母本人は、「みなさんのいいようにして下さい。」 と言うばかりで、それをワタシは、 なんとなく物足りなく思っていたのだった。

 

 

でも、80年の間、自分の足で行きたいところへ行けて、 寝起きも食事も自分の好きなタイミングでできて、 という日常を送って来た人が、急に介護される側になって、 毎日の生活のちょっとしたことにでも人の手を借りなければならな くなったとき、毅然と自分の尊厳を保ちながら、 介護者に対等に振る舞える人がどれだけいるだろう。「 自分は何もできなくなってしまった」「 迷惑ばかりかけて申し訳ない」 という思いに持ち堪えるのに精一杯な人には、「 どうしたいですか?」という一見善意の問いかけが、 重いことだってあるのだ。

 

 

どうすれば、その人が、ただそこにあるということを、 喜びの中で生きることができるのか。本人の意志を無視して、 まわりの都合で当事者の生活を「管理」するのもちがうし、逆に、 本人にどうしたいのか、質問を丸投げにして、 まわりが考えることを放棄するのもちがう。 英国での例や丹野氏の生き方から学べることは、どのようにして、 人とつながっていくか、ということだと思う。 診断初期から専門家や必要な援助との橋渡しになるリンクワーカー の存在、同じ当事者同士の自助グループ、 それから仕事をしていたなら、仕事先の同僚や上司との関係、 それから地域の人々、家族―そういう、 複数の人との関わり合いの場を持つこと自体が、 本人のハリになり、生きる縁となる。ETV特集で、 英国での当事者たちの集まりで、 自分自身の病や老いを彼ら一流のユーモアに変えて、 仲間と笑っていた人たちの顔が忘れられない。

 

 

 

 

 


 
 

「そこにある生」に向き合うということ。

育児にも介護にも、盆も正月もないワ!と誰にともなく鼻息荒くしていたわりには、けっこう良いお正月のひとときを過ごし、今年は良いスタートが切れたな、と思っていたところで、ある記事に出会った。

 

 

記事:完璧すぎる嫁~自分の居場所がなくなる時・同居介護の難しさ~

http://blogos.com/outline/204331/

 

 

記事の内容は、息子夫婦と同居することになった80歳女性Aさんが、「完璧すぎる嫁」のために自分の居場所がなくなるように感じた挙句、そのモヤモヤが82歳の夫の顔めがけて枕を投げつけるという形で爆発し、そこでお嫁さんが、「この件に関して家族で話し合って振り返りをしないといけない」とケアマネジャーに相談するところから、その後の経過について書かれている。

 

 

この記事を読んで、いいな、と思ったのは、お嫁さんが、Aさんの癇癪を無視したり、その場限りで済ませたりせず、ちゃんと振り返りをしないといけない、と行動に移したことだ。そして、その後の話し合いで、Aさんが自分の本音を出せていることも。エピソードの最後は、お嫁さんが漬けものを漬けるのに塩の分量を計っていると、横からAさんがむんずと塩をつかんでさっさと入れてしまい、「いいのよ!」と笑い飛ばしている風景でしめくくられる。

 

 

家族構成や同居までの経緯は異なるものの、身につまされることが多く、思わず自分を重ね合わせて読んでしまった。とはいっても、ワタシは、この記事に出てくるような「完璧すぎる嫁」などではないが、それでも義母に、「居場所がない」と思わせてしまっているのではないか、と思い当たることがある。

 

 

義母は脳出血の後遺症で記憶障害があり、短期記憶がもたないのと、ここ数年分の記憶はごそっと抜け落ちてしまっている。ワタシがオットと籍を入れたのは義母が倒れたことがきっかけで、義母が入院している半年ほどのあいだに引っ越しを済ませ、在宅介護の準備を整えていたのだけれど、義母からしたら、帰ってきた我が家に知らない嫁がいて、家の中を切り盛りしているのである。そのことで嫌な顔をされたことはないし、むしろ始めから義母にはひたすら感謝されたのだけれど、やはり戸惑いは大きかったと思う。

 

 

それでもまだ子どもの産まれる前の方が、配膳や排泄介護で義母の居室に行くときに、義母の子どものころの話や子育て中の話などに耳を傾け、おもしろくそれを聴く余裕があった。それが、子どもが産まれてからは、どんどんとそれどころではなくなった。産後で身体がボロボロなことに加え、いつ泣くかと介護中も乳児のことが気になって上の空で、とにかく手早く介護を終えることしか頭になかった。そうすると、介護はどんどん「管理的」になる。「不都合なこと」が起きないように、先回りしては不安の芽を摘み、日常が滞りなく進むように計らう。そう言うと聞こえはいいかもしれないけれど、それが誰のためか、と言えば、本人のためというよりも、ワタシの「介護のしやすさ」のためだ。毎晩のパッド交換の、時間にしたらたった10分、長くかかっても15分のその時間、ワタシは機械的に身体を動かして、義母とのやりとりも最低限の、身体をどう動かしてください、とか、そういう指示的なものだけになっていった。

 

 

そうして「気忙しさ」を身に纏い、目の前の義母に対してというよりは、自分の頭の中で組み立てたスケジュールに向かって介護をするようになっていたとき、そういう自分の姿に気づかされる出来事があった。

 

 

義母の在宅介護は家族だけで成り立っているわけではなく、週に三日はデイサービスへ行き、それ以外に、朝は毎日、デイのない日には昼にも、訪問ヘルパーに来てもらっていて、一度に30分の時間の中で、排泄介護から清拭、身支度を整える等の介護をお願いしている。ヘルパーにもいろいろな人がいて、30分を越えてあれやこれや気を利かせて介護をする人もいれば、決まった仕事を時間内に手早く済ませるという人もいる。

 

 

その中で、義母の在宅介護の初期の段階から来ているBさんは、いわゆる「仕事のできるタイプ」で、義母が便失禁をしたときなども顔色ひとつ変えず手早く処理を済ませ、介護中も会話を絶やさず、かといって手元がおろそかになるわけでもなく時間にはきっちり終わらせ次の仕事へ行く、そんな人だった。Bさんも子育て中のため、乳児のいる我が家の状況を逐一説明しなくても気を利かせてくれて、訪問時に呼び鈴を鳴らさないようにとか、大きな声で挨拶をしないようにとか、こちらが頼む前からヘルパー間で徹底させてくれたりもして、心強いな、と、ワタシも頼りに思っていた。

 

 

それが、いつからだったか、ハッキリとした時期は覚えていないが、あれ?と思うことが重なった。Bさんが帰った後で介護に使用したタオルを回収しにいくと、決まってごく少量ではあるけれど、タオルに便が付着しているのである。ヘルパーが使用したタオルは毎回洗って絞ったものが置いてあるのだが、そのときも洗った形跡はあるからたまたま気がつかなかっただけかな、と、始めは気に留めなかった。それが、Bさんが来るたびに、タオルに決まって少量の便が付着していることが続いて、これはちょっとおかしいな、と思うようになった。

 

 

Bさんの様子も、以前と変わらずきちっと仕事はしてくれるし、顔を合わせれば義母の様子を報告してくれるのだけれど、目が、合わなかった。介護が終わり玄関先で言葉を交わしていても、どこか上の空で、もう身体の半分は外へ向いているような、そんな感じだった。

 

 

いったん気にし出すと、Bさんのそんな様子から、義母やワタシ達家族との関係は、こなさなければなさない仕事のうちの一つなんだな、という想いが膨らんできた。毎回あいかわらず白いタオルに付着している便を見るたびに、義母や自分たちが雑に扱われているようで、とても嫌な気分になった。

 

 

こうして、Bさんがくるたびにモヤモヤしたものを感じるようになったのだけれど、Bさんが気忙しそうにしながらワタシと話している姿を見ているときに、あ、自分もこうなんじゃないか、と思った。Bさんの、心ここにあらずな様子がこんなに気になるのは、そこに義母の前での自分の姿を見ているからだった。

 

 

そのことに気がついたら、そういえば最近、介護のときに会話がないな、ということに思い当たった。以前なら、いったん喋り出すと長いから、などとオットに苦笑いしながら愚痴りつつも、義母が戦時中に疎開した話や、ラジオから流れてくる玉音放送を聴いた話などに耳を傾けながら、自分とは全くちがう時代を生きてきた人なんだなと、目の前にいる義母の存在に、そのときには奥行きが感じられて、他に用事さえなければそのまま話を聞いていたいと思っていたのだった。

 

 

おそらく、義母が話をしなくなったのは、気忙しそうに立ち働くワタシの様子に気圧されたのだろう。自分が義母を黙らせて、ただ機械的に介護をする対象にしてしまっているということに気がつき、それを認めるのは苦しかった。ワタシは、在宅介護を始める前に、重度身体障害を持つ人たちとのつき合いがあり、介護も経験してきたのだが、その中で大事にしてきたのは、「人と人との関係性」だった。自分のペースに寄せて介護をするのではなく、相手のペースを考え、共同作業のようにして介護をする、そういうことを大事にしてきたつもりだった。

 

 

それが、いざ、介護が「在宅介護」という日常になり、子どもが産まれて余裕がなくなると、介護が「こなさなければならないことの一つ」になり、効率性ばかり優先するようになっていた。「人と人との関係性」を大事にするどころか、「気忙しさ」を身に纏って、「今、ワタシは、いっぱいいっぱいなんです!」というオーラをふりまいて、用事が済めば逃げるように義母の部屋を退散していた。

 

 

自分のそういう振る舞いに気がついてから、義母の部屋の戸を開ける前には、他のことがどんなに気になっていたとしても、いったんは思考のわきに置いておくように、ひと呼吸入れるようになった。どうしても子どもの用事と重なるときには、オットに助けを求めたり、それも難しいときには、義母本人にもちょっと今手が離せなくて、と話をするようにしたら、ワタシが思っていたよりもずっと義母は状況をよく理解していて、ワタシが口を出させない空気を纏っていたことで、黙って受け身でいさせることを強いてしまっていたんだ、と気がついた。

 

 

介護をしていると、どうしても自分が「強者」として立ってしまいがちだ。半身が麻痺して、記憶障害があって、排泄も人の助けがないとままならないとしても、義母には80年生きてきた歴史があって、その人生を前に、ワタシが頭で描いた生活を良かれと思って押しつけようなんて、思い上がりだった。

 

 

ワタシに、このような気持ちの変化が起こってから、とくべつに義母と話をしたわけではないのだが、このごろ、またポツポツと、義母は昔の話をするようになった。父方の出は、もとを辿っていくと関東の武士だ、とか、父親は戦時中でまだペニシリンが足りないから、本来助かるものが助からなかったんだとか、義母の口から語られる話の中では、義母の生きてきた時間が息づいている。義母の存在の奥行きを、もっと知りたい、と、今は思っている。

あけましておめでとうございます。

まだ正月二日目という気がしない。

 

気分としてはもう、とっくに正月は終わり平常運転、というところだ。たぶん、正月といっても、自営業のオットは西暦が2016年から2017年へ変わるその瞬間も納期に追われて仕事をしていたし、ワタシもあいかわらず育児と介護に追われていたので、そんな風に感じるのだろう。
 
 
それでも、まったくお正月気分を味わわなかったかというと、そうでもない。おせちは義母の通うデイサービスが元旦からおせちの宅配をしてくれるというのでそれを注文済みで、あとは何も料理はしないでおこう、と思っていたものの、雑煮と高野豆腐ぐらい炊くか、と、大晦日に一歳児が寝たり起きたり、ヘルパーが出たり入ったりする中で寸胴いっぱいの雑煮とおおぶりの雪平鍋にぎゅうぎゅうの高野豆腐を炊いた。元旦の朝はそれで済まして、午前中に宅配っていうけど、何時ごろ来はるのかな?とか話しているうちに、10時前にはいつも義母のデイの送迎でお世話になっているKさんが、お正月早々から変わらないやさしい笑顔で届けてくれた。思いのほか豪華で味付けも濃すぎず「家庭の味」風で、元旦の昼と夜とは、それをつっつきながら十分にお正月気分を味あわせてもらったのだった。
 
 
結婚前は、正月、というものがどうにも苦手だった。実の父親は勤め人で、ワタシが子どものころは年末もまだ早いうちからがっつり休みに入り、年が明けて三が日を過ぎてもまだ仕事へ出て行かなかった。その間中、父はテレビの前でごろ寝を決め込み、テレビにはずっと時代劇か同じようなバラエティ番組が映りっぱなしで、父親はむっつりとフキゲンを決め込んでその画面を見ているか、いびきをかいて寝ているか、だった。正月の父の不機嫌は原因不明なのだが毎年のことで、家の真ん中にフキゲンのかたまりがごろんと横になっているものだから、母親も母親でキリキリしていて、子どものワタシとしてはそんな正月は憂鬱以外のなにものでもなかった。遠くに住む親戚ともワタシが物心つくころには絶縁状態で、どこに行くわけでもない、普段会わない人に会うわけでもない正月は、ただただ、「はやく終わらないかな」と思って過ごすものだった。
 
 
8年前に地元を離れてからは、正月も家に帰ることはなく、家族とまともに顔を合わせたのは、籍を入れることに決めた一昨年の春になってからだった。それまでの年末は、一人暮らしのアパートで本を読んで過ごすか、仕事を始めてからは人手が足らなくなる年末にはむしろ積極的に仕事に入るのが常だった。
 
 
親戚関係も近所づきあいもない孤立した核家族で育ったワタシは、「我が家流のおせち」や「我が家流の慣習」を受け継ぐこともなく、そういうものと自分を切り離してきた。母は手の込んだ正月料理をつくっていたし、父も買ってきた餅を飾ったりはしていたが、なにせそれがすべて、フキゲンが覆う家の中で行われるわけだから、何のための行事なのか、と、背を向けたままで大人になってしまったのだと思う。
 
 
それが今年は、雑煮を作ったり高野豆腐を炊いたり、おせちはどうするかな、なんてことを気にして暮らしている。家を出入りしているヘルパーと「良いお年を」とか、「正月早々ありがとうございます」とかいったやりとりをしたりしている。ワタシの記憶の中の、つゆが黒くて具がたくさん入って四角い焼き餅が入っているのとはちがう、輪切りの大根と里芋と、豆腐と餅が白だしのつゆの中にぽこぽこと顔を出したすべてが真っ白な雑煮を食べながら、味の加減どう、なんて会話をしている。雑煮の里芋をほおばる一歳児を見ながら、これがこの子にとって「うちの味」になるのか、などと考えて、今まで自分にとって、自分を縛る、逃れるべきものだった「家族」というものを、ワタシはこうして他人たちとともに今まさにつくっているのだと、団欒を前にしてそれを外側から眺めているような、ワタシの半分はその団欒に温かさを感じながらも、残りの半分では「これは現実なのだろうか」と目の前で繰り広げられる「家族劇場」を驚きの目で見つめているのだった。地元を離れてから出会った人たちのなかの数人に、「生活臭がしない」と言われたり、「ちゃんと生活をしなさい」と忠告をもらったりしてきたのだが、今の自分はどうだろう。印象を聞いてみたく思う。自分としては、この変化は嫌ではない、と思っている。
 
 
 
今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

 

大晦日。

暮れも差し迫った12月28日、一歳児のMRワクチンの予防接種へ朝イチで行ってきた。


今年の夏の終わりごろからの麻疹の流行のおかげでワクチンが品薄になり、いつも受診している大きな病院ではいつ問い合わせても「ありません、いつ入荷するかも未定です。」の返事。かれこれ、まだ暑さも残る季節のころからずっとそんなやりとりを繰り返し、まだかなまだかな、と気を揉みながら暮らしていたのだが、ここにきてふと、オットが今までに当たってこなかった個人病院を当たってみたら、「あるみたいだよ」と…。控えてもらったリストのいちばんめの病院へさっそく電話をしてみたら、ありますよ、と。「え、あの、明日でも受けられますか」「はい、大丈夫ですよ」「明日でお願いします!」と、やっとワクチンがあった安堵と年内には済ませておきたいという勢いで食い気味に予約をしたためヘルパーの調整などは間に合わず、当日は朝イチでオット運転・家族総出で一歳児の予防接種へ付き添うことになった(ワタシが現在妊婦で運転できないうえに義母をひとりで置いていけない、ので)。しかも、家からは少し離れたところにある病院で、9時の予約にまちがいなく間に合うためには家を7:45には出たい。と、なると、朝食はいつもより30分早めて6:30からだから明日は5:50分起きだな…と、病院との電話を終えた時点で頭の中で明朝のシュミレーションが始まる。翌日、予定通りに一歳児と義母と自分の身支度を済ませ手筈通りに家を出られ、ちょっとした達成感がある。


こうしてやっと接種できたMRワクチンであるが、絶叫のなか接種が終わりクスンクスンしている一歳児をなだめつつ診察室のベッドで衣服を整えながら、カルテを書いている医者の背中へ向かって、「近くの病院だとどこもないと言われて、ずっと探してたんですよ~」と言ってみたら、「エ?開業医のとこでは10月から一歳児のぶんはありましよ!」とものすごく爽やかにハキハキと言われてしまった。え、そうなの?役所へ行ったときに、「大きな病院(ふだん我が家がお世話になっている病院)でなかったら、他でもないですよ」と言われたのを鵜呑みにしてたよ…なんでも、自分の目と耳と足で確かめなアカン。


というわけで年末である。
親として反省するところは大いにあったものの、ずっと気がかりだった予防接種を年内に済ませられたことだし、年賀状もたった十数枚だけど出したし、大掃除もしてないしおせちだってつくってないけど、もう気分は今年をふりかえるモードなのである。今年も残り少なくなってくると、一年前は、とか、二年前は、とか思い出す機会が増えるわけだが、そのたびに、家族が皆健康でこうやってなんでもなく過ごせていることが、大げさでなく信じられないことのように思う。二年前の段階では、まだ義母は入院中で、ワタシの妊娠もわかっておらず、こういう風景は描けていなかった。


病気やら事故やら、または災害などというものは、当事者にとってはもちろん、その家族や繋がっている人たちにとっても、それまでの日常が断ち切られる経験で、ワタシにとってのここ二年ぐらいは、日常性の回復を必死にやってきた感じだ。回復、というよりも、籍を入れたり、在宅介護を始めたり、子どもができたり産んだり、の二年間だったので、ワタシにとっての「家族の日常」を、試行錯誤しながら、コツコツ、コツコツと作ってきた、といったほうがいいだろう。


義母が脳出血で倒れる、という非日常(正確には倒れた当初はまだ籍を入れていなかったので「義母」ではなかったけど)から、在宅介護という日常へ、そして、妊娠・出産という、これもまた人生のなかでは非日常性のある経験から、育児という終わりなき日常へ。自分の人生に起きた大きなできごとを、あっちに転がし、こっちに転がし、何とか扱えるようにでこぼこを慣らし、毎日息を整えて暮らせるようにする。そういうことを一日、一日、とやってきた。


話は急に変わるが、先日、二人目を産んだ友人とLINEでやりとりをしていて、こんなことを言われた。

「○○ちゃん(ワタシの本名)は自分なんかよりもっと大変な想いをしてるんだから、こんなことでへこたれてちゃダメだって、そういうときいつも思い出すんだよ!」

これを受けて、そのときは咄嗟に、イヤイヤそんなえらいもんじゃないよ、と返したけど、あとに複雑な気分が残った。この会話の前に、友人は毎週末遊びにきては上の子にお菓子を大量に与える義両親に手を焼いているという前段があって、それを別の友人に話すと、「ありえない!月1でもやだし!うちなんか会わせてないよ!」という返事があった、というやりとりなどがあり、そこへの、「もっと大変な想いをしている」ワタシの登場だったわけだ。この友人に悪気はなくて、ワタシの存在を励みにしてる!と言ってくれているだけなのは分るんだが、あ、そんな「ありえないコト」なのか、と、自分の日常にいきなり「ありえない」の光を当てられて戸惑ったのだ。


もちろん、大変じゃない、とは言わないし、「在宅介護も悪くないよ♪」などと気軽にはとてもオススメもできないし、しないで済むのなら育児、特に子どもが乳児のうちからの介護なんてない方がいいと、ワタシも思っている。ワタシ自身使命感に駆られているわけでも高い理想を持っているわけでもなく、そのとき付き合っていた相手の母親が脳出血で倒れて、じゃあ助け合おうか、という成り行きになっただけで、身近に起きた難局を乗り切ることに必死になっただけだった。


実際に急場をなんとか凌いで生活を始めてみれば、介護以前に、友人も困っているようないわゆる「姑問題」みたいなものはあって、自分の食べている甘い菓子を一歳児に与えようとしたり、家のなかで靴下を履かせてなかったら寒くはないのかと一日に何度も聞かれたりする。義母は脳出血の後遺症で記憶障害があり、医師からは症状としては軽度の認知症と同じようなもの、と説明を受けているのだけれど、何度、大人と同じような甘いものはまだあげてないんですよー、とか、暖房つけてるし、赤ちゃんは足で体温調節するらしいんで、靴下履かせてないんですよー、と繰り返し説明しても、やっぱりお菓子をあげたかったり寒くはないかと心配をするのは、病気からくる症状というよりは、「祖母」というものの習性な気がする。


介護、というと、それだけで何か、重たく暗く、つらい響きをそこに聞きとってしまうけれど、実際の当事者としてじゃあ今何がしんどいですか、と問われれば、今挙げたような、言ってみればどこにでもあるような「嫁・姑問題」であったりして、例えば介護と聞いて誰もが想像するだろう排泄介助などは、そういうもん、といったん肚をくくってしまえば、あとは如何に手早く処理するか、という風に切り替えられたりもするもので、それほどイヤなものでもない。


先ほどから何をこねくりまわしているのかといえば、友人の言葉の何が自分に引っ掛かったのかを考えているわけだが、友人が「大変な想い」と言うときのその中身は、友人が「介護」と聞いて思い浮かべるイメージに対して言っているもので、それ、うちのことじゃないよね、ということだ。実際、どんな風に過ごしているかを細かく話したことないし。


これは何かに似ているな、と考えていて思い当たったのは、「障害は不便ではあるけれど、不幸ではない」という言葉。今まで、こういう言葉を聞いても、その言葉の内側から理解するようなことはなかったけれど、今はちがう。そう、不幸じゃないんだよ、不便、ではあるけれど!と、全力で同意する。


「介護」というと、老老介護の挙げ句の介護殺人、などというのがメディアでは話題になりやすく、認知症というと高齢者の無茶な運転とすぐに結びつけられたりする。でも、ひとくちに「介護」といっても、その中身はいろいろで、介護される人の人生があり、介護する人の人生があり、それを周りで支える人たちの人生がある。それは、「ありえない!」と遠ざけてしまえば知ることない、触れることのない世界で、そんな日常が進行していることは、関係のない人にはそれは関係ないのだけれど、でも、誰かと繋がらなければ文字通り生きていけない、という位置に立ってみて、ほんとうは誰もが程度の差はあれ繋がりのなかで生きていて、自分ひとりで生きてきたみたいな顔してたワタシ自身が、どんだけの人の支えがあって今生きてられるのかってことを感じる日々で、そのおかげで毎日のちょっとしたこと、今日の味噌汁は絶妙、とか、一歳児が笑ったとか、夕飯から風呂までの流れが今日はカンペキ!とか、そういう小さなことから喜びを感じられるようになったということがあって、少なくともワタシ自身は、そう悪くないと思ってんだなぁということを、この文章を書きながら気がついた。


繰り返すが、友人に悪気はなく、もしかしたらそれを聴くワタシの方が、無意識に「介護」という言葉の引き連れてくるイメージに縛られていたところがあるかもしれなく、一度、「ありえない!」と光を当てられて目が覚めた、というか、いや、そうでもないよ??と。


育児も介護も、自分の人生の一部。来年も、この日常のうえに何を足していけるのかが、今は楽しみになってきた。


みなさん、どうぞ良いお年を。

 

 

 

一歳児と車椅子の義母と旅に出る【準備編】

ワタシとオットは、義母が脳出血で倒れたのを機会にこれからのことを話し合って結婚したようなものなので、結婚即在宅介護スタートで、新婚旅行などに行くという発想さえなかった。もともと二人とも、記念日とかの類に無頓着で、お互いの誕生日もスルー、そのぶん、ふだんからを楽しめばいいよね、というスタンスなので、結婚式も、仮に義母のことがなくても挙げなかったと思う。

 

さらに、在宅介護を決め同居を始めたら、あっという間にムスメを授かったので、旅行はおろか、ここ一年半ほどは遠出らしい遠出をしていない(唯一例外は、妊娠3か月ぐらいのころ、あんまり急にいろいろ決まったのを、当時距離を置いていたワタシの実家にさすがに一度、報告というか挨拶に行くか、と、車で片道9時間ほどかけて行ったぐらい)。

 

それが、ムスメも一歳になったことだし、ちょっとどこかへ一泊で行こうか、という話が持ち上がった。義母も、脳出血で倒れてから丸二年が経つが、退院当初より元気で、風邪で一度病院にかかった以外は病気らしい病気もせず、右半身の麻痺と軽度の記憶障害はあるものの、なんでもよく食べるし、退院当初こそ、自分の意思と関係なくパッド内で排泄してしまうことはあったものの、それも、朝と昼とにポータブルトイレへ座る習慣をつけたおかげか、だいぶん排泄のリズムが整い、外出するにもそんなにハラハラしなくても良い状態だ。義母が元気なうちに、ということと、さらに、今二人目がワタシのお腹の中にいて、またしばらく出掛けられなくなるし、行けるうちに思い切って出掛けてみようか、ということになった。

 

それで早速、一歳児と車椅子利用者が宿泊可能な宿から候補地を決めようと調べ始めたのだが、これがなかなか、求めている情報に行き当たらない。このご時世、一応バリアフリーをうたう宿泊施設の情報を集約したサイトはあるが、一歳児もいっしょ、ということを念頭に置いたものはなかなかない。そりゃそうだといえばそうなのだが、その二つを兼ねる宿を探すのにまずここまで苦労するとは、ちょっと予想を越えていた。

 

バリアフリーの設備があるところにしても、そこが個々の事情にマッチするかというとそうではなく、例えば義母の場合は、柵なしのベッドに寝るのはこわいから、部屋は畳で、ということになる。しかし、排泄時は車椅子をわきまでつけられる車椅子用トイレが望ましく、部屋になくても、館内の部屋からのアクセスの良いところに車椅子トイレがあることが必須の条件になる。こと、このことだけとってみても、館内に車椅子用トイレがあるかどうかを表記しているかどうかは宿や見るサイトによってまちまちて、あっちを見たらこっちもチェックして、ということをやっているうちに、戻りたい情報へ戻れなくなったりして、しかも、その作業をしているわきには一歳児がいるので、作業途中で遮られるのは当たり前、続きはまたあとで、となって、またイチから調べなおす、なんてこともしばしば…

 

これじゃ、旅行前にエネルギーを使い果たすかもしんない...とげっそりしつつも、だからといってこれであきらめるのも悔しいし、と、だんだん意地になってくる。最終的には、調べているうちに、必要な条件も絞られてきて、いくつかの宿にあたりをつけてオットにバトンタッチし、細かいところは直接宿と連絡をとって決定したのであった。

 

いざ、一歳児と車椅子の義母との旅行を計画してみて、なんてタイヘンなんだろ、と身に染みた。仮に自分だけなら、一泊二日の旅に出ようと思えば、こだわらなければ宿泊施設で困ることは、まぁ、ない。食事や排泄にしたってまぁなんとかなるやろ、と気軽なもんだし、持ち物だって、まぁサイアク行った先で調達できるよね、である。そういう気軽さ・お手軽さというのは、自分で自由に動けて、なんでも食べられて、排泄も自分のしたいときにできる、ということが前提になっていて、宿を提供する側やその情報の集まるサイトも、多くは、そういう相手を前提に商売をしている。何の気なしに利用していたこれまでのサービスは、「強者」の側に自分も立っていたからこそ享受できていたもので、ひとたび、自由の効かない側に身を置いてみれば、なんと心細いことか。

 

ワタシが、この社会は、「自分で自由に動けて、なんでも食べられて、排泄もコントロールできる」ことを前提に動いているんだ、ということをまざまざと感じたのは、今回のことよりも先にまず、第一子妊娠のときの経験がある。臨月まで、自宅から片道電車で一時間の距離を通って仕事をしていたのだが、臨月間近になってお腹がせりだしてくると、通勤時刻の満員電車と、人が慌ただしく行き交う駅のホームがおそろしかった。直接、「妊婦への悪意」というようなものをぶつけられるような機会はなかったし、むしろ、席を譲ってもらったり、職場でも仕事に必要な荷物を同僚が気を効かせて運んでくれたりと、人に親切にしてもらった記憶はたくさんあるのだけれど、それでもあの、「今、何かあったら、自分ひとりで切り抜けられるだろうか」といった不安感は、身重になったときに初めて感じたものだった。ちょうどそのころ、新幹線内で灯油をかぶって焼身自殺をした男性のニュースなどが飛び込んできて、もし今電車で何か起こったら、自分とお腹の子を守れるんだろうか、と背筋が冷たい思いがした。

 

今回、旅を計画してみて改めて、この社会は弱い立場にある人向けには動いていないんだ、ということを実感することになった。こんなことを言っていると、ワタシがこれまで関わりを持ってきた、障害がありつつ日常をパワフルに生きている知人たちの、「今さら何を寝ぼけたことを言ってるんや!」という声が聞こえてきそうなんであるが、まったくその通りで、いくら頭で理解して、その立場に立ったつもりでいても、ワタシは寝ぼけていたのである。

 

でも、いったん目が覚めたからには、こうしちゃいらんない。車椅子とベビーカーで連れ立って旅することが、当たり前の風景になればいいなという願いをこめつつ、その一歩の旅へ、明日からいってきます。

 

 

 

 

 

 

日々飯を炊く。

今日の昼は、この間義母の部屋のテレビに映っていた「チーズカレートースト」というのがやたらおいしそうだったので、余っていたカレーで想像のままに再現してみたら、けっこうイケてて幸せだった。


こう書いていて、余裕が出てきたもんだなぁと思う。ちょうど一年前、3月の末日に義母が退院して在宅介護生活が始まった。在宅介護をするにあたって、ワタシはとにかく食事のことばかりを気にしていた。義母がリハビリを受けていた病院の食事の、栄養バランスの考えられた料理の数々に、ぜったいこんなのムリだよう、とオットに泣き言を言っては、イヤ、あんなの家でするのはムリだって、と慰められながらも、ちゃんとした食事を用意するということを、えらいプレッシャーに感じていたのだった。


しかし、蓋を開けてみれば、義母はいわゆる「介護食」は必要なく、せんべいのような余程固いものでなければ、なんでもよく食べられる。義母は脳出血で倒れたのだが、それとは関係なく、歯がない。どんどん歯が悪くなるのを、治療するのも、入れ歯をつくるのもイヤがっているうちについには全部の歯がなくなってしまったそうなのだが、それで何で食べられるんだ?と不思議なほど、なんでもよく食べる。脳出血の後遺症で利き手の右手が麻痺してしまったので、食事を切り分けたり小さくしたり、という作業が困難なので、お皿に盛った食事を小さく切り分けたり、ということはするが、メニュー自体はワタシやオットが食べるものと変わらないものを食べられる。


先日、離婚した男女は、ともにその後の生活習慣病にかかりやすいという統計が出た、という記事を目にしたけれど、ああ、それはそうだろうな、と納得した。この間オットが家を空けた一週間、義母もショートへ行っていたあいだ、見事に私自身の食生活はテキトーになった。最初の2、3日はそれなりに料理もしたが、あとは鯖の缶詰と白ご飯、だったり、生協の冷凍食品ばかりを食べていた。生協の冷凍食品は、冷凍食品へのイメージを変えるほどにおいしいのだけれど、やはり、パックで温められた料理を一人でぼそぼそ食べているのは味気なかった。神戸の料理家の女性が、被災地支援で、一人暮らし向けの男性へ簡単につくれて栄養バランスもいい食事の作り方を教える活動をされているのを、テレビの特集で見たが、それもやはり、一人の男性は体調を崩しやすいという傾向がわかり、そのような活動を始めたということだった。


子どもが産まれてからは、寝ても覚めても、大人3人と乳児1人の胃袋のことばかりを考えて過ごしているといっても大袈裟ではなく、ときどき、これがいつまで続くのか、とへこたれそうにもなるのだけれど、気がつけば、高血圧の義母と結石持ちのオットと、母乳製造中の自分のためにも味付け薄めの野菜たくさんの料理を毎日食べているおかげで、過去最高に健康体かもしれない。育児と介護のダブルヘッダーは、たいへんだけれども、それで元気にいられているという面もある。