言葉にすることの力

今朝は、6:20起床。朝は、ヘルパーさんに8:00に来てもらっているので、7:00ころには朝食を食べ始めたいのだけれど、最近、だんだんお腹がせり出してくるのとともに、自分で思っているのよりも動きがスローになっているらしく、食べ始めるのが7:15、7:20、7:25…とだんだんと遅くなっていた。そうなると、ヘルパーさんを迎えるのもバタバタするので、10分だけ起きるのを早くしてみたら、今朝は7:00すぎには食べ始められた。朝の10分は、魔法の時間だ。


土曜日はハハはデイサービスの日で、9:00にお迎えがくる。それを見送ったあとで、今日が返却期限なので、図書情報館へ向かう。畑で作業中のオットに、ちょっと行ってくるよ、と声をかけると、もうすぐしたら外出るついでに送っていけるけど、と言われる。でも、資料探すのちょっと時間かかるし、と、せっかくだけど辞退した。


自力で、となると、まずうちから徒歩15分のバス停までを歩かなければならない。それも、うちはちょっとした山の中にあるので、起伏のある道だ。そして、最寄りのバス停から駅まで出て、そこからまたバスを乗り換えて図書情報館へと向かう。家を10時に出たら、図書情報館へ着くのはお昼前、と、けっこうな道のりになるのだけど、いい運動になるというのと、本音を言えば、待ってもらいながらだと、おちおち本を見ていられない、というのもある。この3か月ぐらい、家族の時間に合わせて動くことが基本で、仕事以外で自分ひとりで外に出る、ということもままならず(つわりがひどかったせいもあるけれど)、えっちらおっちら行くのが、楽しいんである。


自分ひとりで外に出るのもままならない、と書いたけど、それだけではなく、この3か月ほどは、何かを読もうとか、そんな気力も湧かなかった。つわりのピーク時は、活字を観ているとさらに酔いそうで、ふだんなら気晴らしになる読書がまったくできない。これはけっこうしんどかった。で、やっとつわりも明け、今の生活リズムもできてきたら、今度は猛烈に活字が読みたくなった。それで2週間前に、引っ越してきてすぐ利用者カードをつくったまま行けないでいた図書情報館へルンルンと出掛けたのだった。


前回もそうだったけど、大量の本の並ぶ書架の前で、「こ、これ、ぜんぶ読んでいいんだ…」と、涎を垂らしそうな勢いだった。妊娠脳のせいで、ちょっと(ちょっと?)おかしくなっているみたい。借りられる本は5冊と決まっているので、この2週間で読み終わらなかった本を延長して借りるのと、他にお目当ての本2冊、のこりの2冊は来てみてから選ぼう、と決めてきた。

 

今日借りた本は以下。

 

伊藤比呂美著『おなかほっぺおしり』『良いおっぱい悪いおっぱい』
川上未映子著『乳と卵』
高橋源一郎著『君が代は千代に八千代に』
大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』(読み終わらなかったので延長した)

 

…なんというか、3冊目までは、タイトルからして乳の匂いがしてきそう。ちなみに、前回のラインナップは以下。

 

川上未映子著『きみは赤ちゃん』
高橋源一郎著『非常時のことば:震災の後で』
落合恵子著『母に歌う子守唄:わたしの介護日誌』
伊藤比呂美著『伊藤ふきげん製作所』

 

どんな本を選ぶかってことに、そのときの興味関心や精神状態があらわれる気がする。これまではわりと、ひとつのテーマやひとりの作家を集中的に読む、という読み方だったのだけど、今は、なんだか思考を集中して持続させる、ということがむずかしい。興味はとっ散らかり、あれもこれもツマミ食いしたい!な気分なのである。

 

そういうわけで、コレ、と思ったものを乱読しているのだけれど、やっぱり、これまでなら手にとらなかった、出産や育児に関する本に手がのびる。川上未映子さんと伊藤比呂美さんの著書には、出会えてほんとうによかった。妊娠してから、絵に描いた様な情緒不安定で、急にかなしくなって頭から布団をかぶって嗚咽してみたり、もはや人間というより、子猫を抱えた雌猫のように全身の毛を逆立ててイラついてみたりと、自分の身体の野性に翻弄されていた。表向きは、規則正しい生活のおかげで、なんとか平静を装えていたけれど、心の中は、ともすれば、どす黒いものが溢れ出てしまいそうな、ぎりぎりの感覚があった。

 

それを、「それは、自分にかぎったことじゃないんだ」と思わせてくれたのが、お二方の本だった。言語化する、ということは、それだけでときにもの凄く救いになるもので、それで状況が激変するわけじゃないのだけれど、憑き物がおちたようになる。「あなたはひとりじゃないよ」と、抱きしめてもらったような、温かいものが、身体のなかに湧いてくる。先人の知恵を借りながら、わたしもまた、言葉にすることで、まず自分自身を支えるのとともに、どこかで誰かの役に、ちょっとでも立てばいいな、という気持ちもあって、このブログも再開したのだった。まずは、週に一回の更新を目標にしてみようと思う。

腹ぼて在宅介護生活スタート。

引っ越し完了と書いてから、またたくまに3か月以上が過ぎました。


昨年の10月に、お付き合いしているパートナーの義母が脳出血に倒れたのを機に、それなら一緒に住もうかと話し合って決めた引っ越しでしたが、そのとき「こうなったら、介護でも育児でもこい!」と勝手に肚をくくっていたら、ほんとうに、新しい命がやってきてくれました。


まだまだ寒い、真冬のさなかの1月、朝方目が覚めると、これはどう考えても花粉症の症状だ、と思える症状が出ていました。でも、時期的にありえない。そこで、妊娠すると身体がわざと免疫力を下げて、異物を体外に排出しないようにする、という、どこだかで聞きかじった話がよぎり、また、わりと規則正しくきていた生理も遅れていたので、もしかして、と検査薬で調べたら、結果は陽性。


すぐに、パートナーに電話をすると、電話口で「...夢みたい。」と。わたしより11歳年上の彼は、ずっと子どもがほしくて、年齢を重ねて焦る気持ちもあったので、とにかく喜んでくれました。


翌日、改めて病院へ行くと、「できたて!」と言われて、ほんとうにホヤホヤだから、まだ週数など確定できない、と言われ、後日改めて受診することに。1週間後の受診で、晴れて妊娠確定となったのでした。


そこからは怒涛で、2月の頭に非常勤講師の仕事が春休みに入るとともにつわりが始まり、オエオエとえづきながら引っ越しの荷造り。共同生活は自分史上サイテーにダウナーな状態から始まりました。そのころ、義母はまだ入院中で、退院は3月末日。それまでに、新しい生活に慣れて義母を迎え入れる準備をしよう、という計画でしたが、まったくそれどころじゃなく、わたしは朝から晩までのびていました。


そうこうしているうちに、その3月末日がやってきて、在宅介護がスタート。非常勤の仕事も、臨月になる夏季休業までは続けることにしたので、そのうちに授業も始まる。準備も何もあったもんじゃなく、腹ぼて在宅介護生活は走りだし、目の前にあらわれる山を越え谷を越えしいてるうちに過ぎたのがこの3か月でした。


過ぎたから言えることだけど、それでも、なんとかなる。怪我の功名というか、災い転じて福となすというか、とにかくこの3か月が過ぎてみて、家族3人ともが、なんだかとっても健全な生活をしている。実は、義母が倒れるのに先立つ一か月前、パートナーは尿管結石で地獄の痛みを味わい、救急車に乗るということがあり、以来、晩酌を控えるようになっていたのだけれど、そこへ義母の脳出血が重なった。そして、これは災いではないけれど、わたしの妊娠、とつづき、全員が全員、「ヘルシーな食と規則正しい生活」を推奨される身となったのだった。


自分のためだけだと三日坊主で終わってしまうようなことも、人を巻き込めば、なんとかなる。一人暮らし歴8年のジャンクフード生活から脱皮するのは今!と、3食自炊生活へ切り替えた。そして、義母の、7時起床、9時就寝というリズムに沿うように、わたしも、6時過ぎには起き、夜は12時前には寝る。つられて、パートナーも、以前は昼抜きで夜は遅くまで作業をしていたのが、納期前の修羅場をのぞいては、3食きちんと食べ、その日のうちには寝る、というサイクルに落ち着いていて、ぽっこり出始めていたお腹もみるみるへこみ、つい先日の泌尿器科の検査では、「石」は、塵のようなものも含めて、まったく見当たらなかったそう。


もちろん、この3か月で、大なり小なり「事件」は起きて、その中には、すぐに解決できそうなものから、しばらくは答えの出ないようなものまで、さまざま、ある。ただ、とにかく、衛生的で、三食そこそこおいしい食事が食べられて、ぐっすり眠ることができる、という、小学校で習うような基本的なことを大事にできていたら良いかな、程度には、肩の力は抜けてきました。

引っ越し終了。

無事、引っ越しが終わった。

 

今回の引っ越しで、少なくとも大きなゴミ袋10個以上のものを処分したり、リサイクルにまわしたりした。最後まで難儀したのは、冷蔵庫や洗濯機などの大型家電だ。冷蔵庫は、去年の夏に故障したものがそのまま置いてあったのと、そのあと知人に譲ってもらったものとがあった。洗濯機も友人から譲り受けて、その友人も、もともとは中古屋で買ってきたものだから、最近では洗濯をすると決まってガタゴト激しい音を立てては途中で停止していたという年季もので、今回を機に処分しようと決めていた。それらの、処分にお金のかかる家電のほかにも、電子レンジやトースター、それからカラーボックスに衣装ケースなど、引っ越した先では使わないだろうけど、普通ゴミには出せないものの処分が、女の一人暮らしだとけっこう困る。

 

ものは試しに、徒歩10分の区役所の目の前にある某リサイクルショップに電話をしてみたら、大型の家電以外だったら、無料で引き取ってくれるとのことだった。電話口の人が、「ついでに、要らないものを出しといてもらえたら、引き取ることができるものは何でも持っていきますよ」と親切に言ってくれたので、もう使わないカセットコンロなども出しておく。実際に作業に来てくれた人は、ちょっと日本語のたどたどしい青年だった。あわよくば買い取ってもらえないかと、冷蔵庫の見積もりをお願いしたけれど、年式が古いため値はつかない、とのことだった。大型のものはあきらめて、レンジやトースターやもう使わない家具などのいっさいがっさいを無料で持っていってくれたので、かなり助かった。

 

結局、大型家電は、他の引っ越し荷物と一緒に2tトラックに乗っけて運び、後日業者に持ち込んだ。まるで自分でしたように書いているけれど、積み込みも業者へ持っていくのも、パートナーがやってくれた。引っ越し荷物も、最後のほうは力尽きたのと、段ボールがなくなったので、テキトーな袋に詰め込んだだけの状態で、元引っ越し屋の彼には、箱に入れておかなきゃダメだよ…とぶちぶち言われてしまった。ごめんごめん。

 

そうして、なんとか人も荷物も越してきて、荷解きも終わって、新しい生活をスタートさせている。一緒に住んでいる相手は自営業で、わたしの講師の仕事は今春休みなので、四六時中顔を突き合わせている。これまで、途中で他人と暮らしたりした時期もあったけれど、約10年間ひとり暮らしをしていて、好きなときに食べ、好きなときに風呂に入り、好きなときに寝るのが当たり前で、でも、どこかでそのことに倦んでいた。なんでも、自分の好きなときに好きなように、って、それほどよいものでもない。誰かのペースと自分のペースとがあって、お互いのペースを気遣いながら、二人にとって良いペースを今つくっていっているところで、小さなぶつかり合いやちょっとしたガマンなどはあるけれど、自分以外の生き物がいる、ということは、元気の出ることだなぁと実感している。

 

今、ちょうどこれを書き終わったところで、家人が顔を出して、「桜餅食べん??」と言ってきた。今日はひな祭りだ。

 

 

穴を掘る。

今日は、今のアパートに引っ越してきたときに運び入れたまま、ずっとその場所から動かされずにいた段ボールの中身をあけて整理した。毎回引っ越しのたびに片づける時間がなくなって、しまいには、「引っ越した先で捨てるか判断すればいいか」と思って、結局使わないものも一緒に引っ越すことになるのだけど、この段ボールも、そのひとつというわけだ。でも、さすがに今回は、ちょっと身の回りをきれいにしていきたい、という思いもあり、とにかくできる限りは処分しようと、この一週間、のろのろとがんばっている。

 

段ボールの中からは、除光液が半分だけ入った瓶や使いかけの乳液、丸いピンの入ったケースや公演のチラシなど、ありとあらゆるものがごちゃ混ぜになって出てきた。そのなかに、しばらく見ていなかった写真や葉書やらも混ざっていて、すっかり思い出すこともなくなった記憶が急に蘇り、そのたびに作業の手が止まった。大学時代のほとんどを捧げたサッカー部時代の写真の自分はおどけた顔ばかりをしていて、ずいぶん力んで生きてたんだなぁと、舌を突き出して顔をくしゃくしゃにしている当時の自分を見つめた。一緒に写っている奴のなかには、そのあと専門学校に入り直してトレーナーの知識と技術を身につけ、この春に自分たちのクリニックを開こうとしている奴もいるし、人の親になっている奴も、何人もいる。また別の葉書は、中学校から今でも連絡を取り合っている子からきたもので、その子はその葉書のあとの人生で、世界一周の船旅へ出かけたあとで、彼女の帰りを港で馬のお面をかぶって待ち構えるユーモラスな旦那と結婚した。それから、わたしが博士課程に在籍していたときの後輩が、修士論文を書き終わったあとでくれた手紙も出てきて、そこには修論での苦労と、どれだけわたしに助けられたのか、ということが、びっしりと生真面目な字で綴られていて、助けられていたのはこっちのほうだなぁと改めて思ったりもした。その後輩も、今では一児の母で、先日その子どもをこの手に抱いたところだ。

 

もちろん、わたしの上にも時間は降り積もっていて、ずっと何かを探すように必死に20代を駆け抜け、30代に入ったところで、少し立ち止まった。出会うことの中から、これ、と思うことに飛び込んできたけれど、人生で「試す」ことができるのは、そう無限にできることではないのだ、という、当たり前のことに気がついた。そこから、少しずつ、手放すものを整理してきた。その中には、それまでの人生で、埋めよう、埋めようとしていた「穴」のようなものも混じっていた。けれど、残りの人生を、その「穴」を埋め立てることに費やすのは、イヤだな、と思った。人生は、穴埋めのためにあるのではないし、実際、ある出来事を、べつの出来事で埋め合わせるってことは、できないことだ。でも、今を生きることは、できる。穴を埋めるためではなく、昔の人が、こつこつと岩やら石やらを運んだら、そのうちに大きな古墳ができたように、何かを産み出すために、穴を掘りたい。漠然とした話だ。でも、漠然としているからといって、それが何もしない理由にはならないし、自分にできることを、こつこつとやるところからしか、始まらないのだ。まず櫂より始めよ、だ。まずは無事に引っ越さなくちゃなぁ。

 

引っ越し作業の合間に。

先週で非常勤先の授業も終わったので、いよいよ引っ越しに向けて作業をせねばならないのだけれど、この寒さのせいで真冬のイモリのようになっていて一向に進まない。今週末にはぜんぶパッキングも終わった状態にしなくてはいけないんだけどな。終わるのかしら。今、この文章も、積み上げられた段ボールに囲まれながら書いている。土日に彼が来てくれて、とにかく梱包に必要なものを揃えなきゃ、といって車を出してくれたので、最寄りのコーナンで段ボールの小さめのを10個と中ぐらいのを3個買ってきたのだが、本を詰めただけで7箱になった。そこまでの作業を一気にやってへとへとになり、今は休戦中である。

 

段ボールに囲まれた部屋で、梱包途中の本に読み耽ってみたりしながら、ここ数日を過ごしているのだけれど、今日、アイフォンでツイッターを観ていたらヤマザキマリさんの「地球のどこかでハッスル日記」が更新されていた。

 

第20回 知らないおばちゃんとも打ち解けられたシリアの浴場よ!(ヤマザキマリの地球のどこかでハッスル日記) - 女性自身[光文社女性週刊誌]

 

毎回更新を楽しみにしているのだが、今回の内容もまた、ど真ん中というか、ここのところ、考えているようでグレーがかって、思考の形にならないようなものを、言葉にしていただいたような感覚を覚えた。

 

今回の日記で、ヤマザキマリさんはまず、ツイッターというツールは今や自分の日常にとって切り離せないものになっている、というところから話を始めている。いったん見出したら止まらない、その「ブラックホール」のごとき影響から、何度アカウント削除しようという意志をくじかれてきたことか、という嘆きのあとで、それでも、世界各国のありとあらゆる情報が瞬時にわかるという有為性や、同業者仲間のほっこりするようなつぶやきを横目にしながら仕事をすることの利点を書かれている。話はそのあと、しかし、と続く。

 

しかしさすがにこの数週間は、ツイッターやその他のSNSに対して前より寛容な気持ちでやり過ごすわけにはいかない事態がありすぎました。TLに砂漠に跪かされたオレンジ色の服の人の画像がアップされるのを目にしてしまった瞬間の、身体中に走る戦慄は形容し難いものがあります。画面越しに強制される恐怖感や悲しみ、怨嗟といったものは、発信元の連中が完璧に目論んだものであり、我々はまんまと彼らの思う壺にはまって動揺し、慌て、胸中に発芽してしまった苦い思いをなんとか緩和させようと躍起になる。

 

 

この部分を読んで、わたしは、自分がここ数週間抱いていた、あてどのない苦々しい気持ちがどこからきているのかを、はっきりと意識した。それは、流れてくる情報を目にし、動揺し、さらなる情報を追い求めるにしろ、情報を遮断するにしろ、自分の行動が「彼ら」によって左右された、ヤマザキマリさんの言葉を借りれば、「まんまと彼らの思う壺にはまって」しまったことへの憤りだった。実際のわたしは、事件の発生から、情報を遮断するという行動をとっていた。第一には、自分が情報を目にすることで受ける衝撃をかわしたかったからであるし、また、どこかで、「情報を見る」という行為が、「彼ら」に加担するようで、行為そのものに嫌悪を感じたからでもあった。情報を集め、何が問題になっているのかということを考えたり、政治的な発言に踏み込んだり、そうでなくても個人としての感想を発信する人たちのことを非難しようとは思わない。だけど、わたし自身は、少しでも「見せしめ」的な要素に演出された映像を、ちらとでも見ることは自分に禁じた。

 

実は今回のこと以前から、わたし自身はツイッターや他のSNS離れをしていた。アカウント削除はしないまでも、TLも自分でつくったリストのものしか見ないようになっていたし、facebookも長いこと放置している。わたしがSNS離れを起こした直接的な理由は、上の話と比べたらあまりにくだらないといえばくだらないのだけれど、SNSで偶然に、付き合っている相手の行動を知ってしまったことだった。共通の知人がアップした画像の中に彼が映り込んでいて、べつに、その画像自体はなんの変哲もない画像なのだけれど、そのころ、相手も自分も仕事が忙しくてなかなか会えていないなかで、映っていた画像がうちからすぐ近い場所で、ちょっと寄ることだってできただろうに、なんてことを思い出したら止まらなくなって、ウジャウジャとした気持ちになってしまったのだった。

 

それで、一つ前の記事に書いた、「同志」に、そのときもヘルプ!とメールをしたのだけれど、そうしたらその知人も、

 

「自分が相手を想う気持ち以外、必要な情報なんかあるか思て、アカウント削除してしまったわ!」

 

という男気溢れる返事が返ってきたのだった。そっか、やっぱり彼のような大人でも乱されることはあるんだな、という安堵の気持ちと(「同志」の彼はわたしよりも10歳ほど年上)、それは賢明な選択だな、と思った。

 

いきなり話が、卑近な、それも生々しい話に逸れていってしまったけれど、そういうこともあって、SNSとはつかずはなれずの距離をとっていたところだったのだ。そこへ、今回のような、情報のツールを最大限、最悪な方向へ利用する事件が起こり、情報の持つ暴力性に対して無防備でいてはだめだ、という想いを強く持った。ちょっと立ち止まって、生きていくのになくてはならない「情報」って、どのくらいあるのだろうと考えてみる。試しに、1週間、あらゆるSNSを見ない、ということもやってみたことがあるが、生存していくのに困ることは、まったくなかった。ただ、不必要な情報を遮断する、というのと、臭いものに蓋をする、ということも、分けなくてはならないと思う。知りたいことがあるときに、やっぱりSNSは便利だし、使わない手はない。でも、無限にある情報の中で、恐怖心を植え付ける目的であったり、脅しをかけることが目的であるような情報は、情報としての価値がないと、きっぱりと切り捨てる判断は、持っておいたほうがいい。

 

 

今回のヤマザキマリさんの記事は、最後にシリアの公衆浴場での、オバちゃんたちとの裸の付き合いのエピソードで締めくくられている。

 

普段は顔しか見えない衣装に身を包んでいるシリアの女性たちが、浴場ではみな素っ裸になって(パンツははいていましたが)、開放感に充ち満ちた表情で寛いでいるその光景を目の当たりにしたときの驚きと感動は忘れません。私は、アラビア語はいっさいできませんが、そのオバさんの家族・親戚グループに混ぜられ、話の内容がわからなくても雰囲気に合わせて一緒に笑ったり、ピクニックのようにそこに広げた食べ物を食べたり、背中を擦ってもらったりして楽しいひとときを過ごしました。

 

 

幸福な光景だ。その公衆浴場があった街が、今ではほとんどが瓦礫と化してしまって、浴場も無事で残っているかはわからない、ということも書き添えられていたけれど、ホカホカのお風呂で裸で睦み合う女性たちの姿が、目に浮かぶようだ。このことからわたしが思うのは、とても素朴なことだけれど、生身のやりとりを大事にしたい、ということだ。そして、このように文章を書きつけるときでも、文章に限らず、何かを発信するときでも、なるだけ、体温の乗ったやりとりを心掛けたいということだ。脅しや、恫喝の道具としてではなく、励ましや笑いや祈りを届ける道具として、丁寧に言葉を綴り、発し、人と関わっていきたい。

同志よ。

ここのところ、知り合いと交換日記のようなメールをやりとりしている。

「交換日記」という言葉はもう死語なのかもしれないけれど、かなりな長文をぐだぐだと打って送ると、2~3日おいて、相手も長々と長文を返してくるというやりとりは、交換日記の間合いと似ている。相手に返事を急かすでもなく、でもどこかで返事がくるのを楽しみにしているようなやりとり。このペースをわたしも、おそらく相手も気に入っていて、ぼつぼつとやりとりが続いている。

 

その相手からおとといきたメールで、「過去に男女関係を持った相手・あるいはそれに近い関係になった相手とのその後の関係」が話題になった。メールの相手とは男女関係はなかったのだけど、彼曰く「売れない芸人と敏腕マネージャー」のような関係で、一度は好意を持ってくれた過去があり、そんな相手とこんな風にやりとりするなんて、他にはいないわ~ということだった。

 

それで、自分はどうかな、とふりかえってみて、今でも連絡をとっていて良い友人関係になっている相手もいれば、まったく連絡をとっていないのはもちろん、どこで何をしているかも知らない相手もいる。「その後」にどんな関係性になるのか、は、どんな付き合い方をしていたか、そして、どんな別れ方をしたのか、によると思う。そういえば最近、友人がつきあっている彼と別れるかもしれない、という連絡を寄越してきて、その別れ方を聞いて仰天したことがあった。何かといえば、別れることを前提に、最後のクリスマスは楽しく過ごそう、ということで、二人仲良くクリスマスを過ごしたというのだ。そんなことをしたら、余計に別れ難くなりそうなもんだけど、そうでもないらしい。わたしは、そんなきれいな別れ方とは無縁で、だいたいが、お互いのみっともないところを露呈し合って木端微塵になるのが常だった。

 

その「交換日記」の相手とは、粉々、とまではいかなくとも、なんとなく気まずくなり、連絡を取り合わなくなった期間があってから、何がきっかけだったかは忘れたが、また連絡をとるようになった。やりとりが再開して、お互いの仕事や生活上の悩みや考えていること、進行形の恋愛についての愚痴やノロケ話にいたるまで、ほんとになんでも話す。それでわたしが、「いやほんとに助かってます」というようなことを送ったら、冒頭に書いたような内容のメールが返ってきたのだった。それで、こういう関係ってなんていうのかなぁと考えていて思い浮かんだのが、タイトルに書いた「同志よ。」ということなんだけれど、すねに疵持つ同士、という感はある。

 

 

今日半日、このことをぼんやりと考えていたら、わたしが好きな歌人穂村弘さんと、精神科医で作家の春日武彦さんとの対談本のなかで、この「元彼・元彼女との友情」について書かれていたのを思い出した。

 

 

元彼女って自分のメンタリティの最低の部分を知られてるから心安いし、けっこう堅固な友情に近い感じになれるんですよ。前に昔のガールフレンドから明け方に電話で呼び出されたことがあったんだけど、彼女、道端で頭から血を流して座っててさ。ボーイフレンドが車をぶつけて事故に遭っちゃったから家まで送ってくれって言うんで送っていったら、今度は「彼が来るからもう帰って」って(笑)浮気相手とデートしてて事故ったから、僕に家まで送らせて、本命の彼が来るから帰ってくれなんて、普通だったらむかつくんだけど、関係性の歴史があるから、しょうがないなあだけで済んじゃう。

 

ここに書かれている、「けっこう堅固な友情に近い感じ」というのは、とてもよくわかる。いまさら知られて困るようなメンタリティもないし、お互いに言いたいこと言い合っても関係性が後退も進展もすることなく、お互いがアドバイザーの役割をかわりばんこにするよう関係で、とても頼りになるのだ。「交換日記」の相手とやりとりする中でお互いに同意したのが、恋愛関係を育てていくのには、第三者とハプニングが必要だよね、ということ。その相手の進行形のお相手とは、本人曰く“微妙かつ複雑かつ異様かつ不可解”な関係で、わたしとのやりとりがなければ、とてもじゃないけど、ゲームみたいに楽しみながら続けてられない、ということらしいし、わたしにしても、脳内妄想が暴走してどうしようもなくなったときに、ワンクッション置かせてもらえたことで、いらん争いを避けられた、という場面は多々あり...。

 

 

ひとつだけ気をつけたいなと思うのは、最近覚えた言葉に、「お互いがお互いをゴミ箱にする関係」というのがあるのだけれど、そうはならないようにしないとなぁということ。これは、わたしが体調管理のお手本にしている、東京の鍼灸師の若林理砂先生の言葉なんだけど、愚痴を言い合ってスッキリ!というのはたしかにあるのだけれど、それだけをやり続けていたら関係性がだらけてきて、良い友人関係でいられなくなる、ということを言っていて、そういうことは確かにあると思う。今のところ、「交換日記」の相手とは、お互いの愚痴をちょっと俯瞰してみたり、ユーモアに変えてみたり、ということができているからその心配はなさそうだけど、やっぱり、「親しき仲にも礼儀あり」だ。過去、破綻した人間関係って、恋愛関係に限らず、そこに尽きるという気がするし。傷つき、傷つけた分だけ、今の相手のことを思いやり、やさしくできるのも、過去の出会いと別れがあったおかげだなぁと思う。

『俺に似たひと』再読。

移動の電車の中や早朝のカフェで授業準備をして臨むという、自転車操業体制でなんとか年内の授業は乗り切ったが、あとまわしにしていた大量の採点作業が残っていたので、年末年始を過ごすための荷物に教材とプリントの束とを詰め込んできた。その他の荷物は、セーターが二着、デニムが一本、ルームウェア一着と下着の替えと、コンタクトと常備薬程度。荷物の半分以上は、本やらプリントやらで埋まっているのだけど、その中に一冊、この年末に読もうと放り込んできたのが、『俺に似たひと』だ。

 

年末年始のおともに、と持ってきたのだけど、いったん読み始めたら止まらず、一気に読んでしまった。一度読んでいるのだけれど、今読むとまた、言葉の入ってきかたがちがう。『俺に似たひと』は、著者による実父の介護の経験が、「俺」という一人称で語られている。語られている内容は介護の経験にはちがいないのだけれど、「俺」というフィルターを通して語られることは、ひと組の父と子の物語であり、「俺に似たひと(=実父)」と「俺」、それぞれの、生きてきた道程だ。

 

著者自身はあとがきで、「わたしはこの「物語」が、日本中の介護をしている人々や、これから介護に直面しなければならない人々にとってのいくばくかの参考になってくれればいいと願っています。」と述べている。もちろん、プラクティカルな介護の指南書としても、本書は当事者にとって心強い助けになるだろうし、実際にわたしも、これから幾度となくページを開くことになるだろうなぁという感じはしている。しかし、今回読み直して、わたしがより惹きつけられたのは、介護を通して露わになってくる「俺」の在り方だった。

 

たった四年かそこら、それも、高齢者介護ではなく身体障害者の介護という畑違いの自分が、何かをわかっているとは思わないけれど、それでも、介護の現場で感じてきたことを言葉にするならば、介護は、エゴとエゴのぶつかり合いの場である、ということだ。互いの思惑というものがあり、それが、皮膚感覚でお互いに伝わる。近づきすぎても窮屈になるし、遠すぎても人間味がない。なるべくニュートラルな状態で携わりたいと思っていても、相手も自分も人間なので、コントロールしようと思ったことは、たいがい頓挫する。良い介護をしようと思ったら、自分の心のあり方がまず、問題になる。

 

『俺に似たひと』では、「俺」が父の老いを目の当たりにしながら、老いや死という、誰にも訪れる生の過程についての言葉が綴られていく。老いは、治療や克服の対象なのか?という「俺」のつぶやきが、胸の深いところへ響く。死を遠ざけているかぎりは見えてこない地平に目を凝らすと、死によって照らされる生が、仄々と見えてくる。その生のあり方とは、例えば次のようなことだ。

人並みの生活をしていくために最低限しなくてはならないことはさほど多くはないが、それを毎日きちんと続けて習慣にするためには、結構多くのやりたいことを諦めなければならない。そして、この習慣にはそれだけの価値はあると思えるようになった。

 

「やりたいことを諦める」のは、不本意なことだろう。しかし、この、「俺」の言葉は、強がりには聞こえない。それは、ここに書かれてあることが、人が人であるということはどういうことであるかに、届く言葉だからなのだと思う。