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六車由実さんの記事を読んで


今日の朝日新聞に掲載の六車由実さんの記事を読んだ。http://digital.asahi.com/sp/articles/DA3S11261260.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11261260


 

六車由実さんは、もともと民俗学の研究者で大学教授の職に就いていたけれど、その職を退いて介護の世界に入った方だ。この記事を読む以前から、ご著書の『驚きの介護民俗学』やTwitterなどを通して六車さんのことは一方的に存じ上げていた。だけど、この記事に書かれているような、大学を辞めて介護職員になるいきさつや、外からやってきた六車さんの目に介護の現場がどう映り、何を問題と考えていらっしゃるかなどは、ご著書からだけでは知らなかったことで、興味深く読んだ。

 

わたし自身、介護とのつきあいは今年で5年目になるだろうか。といっても、わたしの場合は、六車さんのように介護職員として施設で働いてはいなくて、介護の相手も高齢者の方々ではなく、重度身体障害者の方々だ。わたしは、もともと福祉を学んでいたわけでもなく、身内に介護が必要なメンバーがいたわけでもない。わたしの介護との出会いは言わば「事故的」なもので、大学院の博士後期課程在籍中、大学を飛び出してはまり込んだ芝居で、身体障害を持つ方たちと一緒に作品づくりに関わったのが始まりだった。

 

そこで3年間どっぷりと裏方をやりながら、重度身体障害者生活介護に入ったり、ときには国内外問わず、ツアー公演などにも山のような荷物を背負いながら車椅子を押して出掛けて行ったりした。その3年間で関わった人たちは、障害の程度も軽度から重度までさまざまであったし、年齢層も上は70過ぎ、下は現役高校生もいた。関わっているあいだに亡くなる方もいた。劇団の主宰が、「みんな早く逝く」と言うのを聴いたことがあったけれど、わたしがいた間だけでも、3人の方が亡くなった。劇団を辞めてからも介護との縁は続いていて、今も非常勤の仕事の合間を縫って、重度の方の訪問介護を副業にしている。

 

今回の記事で六車さんが問題にしているように、「ケアする側、される側」という関係性については、以前より介護に入る頻度の減った今でも考え続けていることだ。六車さんの指摘するように、ケアする側は、意識しなければ簡単に「優位」に立ってしまい、ともすればケアする側に都合のいい介護をしてしまいがちだ。また、ケアする側とされる側の関係が密になりすぎて、仕事としての関わりなのだけれど、そうキッパリと線を引けるもんでもない、という問題も出てくる。ケアされる側の当事者にしたら、良質の介護のできる、痒いところに手の届くような介護者に入ってもらいたいのは当然で、当事者のまわりには、パートナーやベテラン介護者を中心とした親密圏が築かれていることがほとんどだ。これがそのまま、彼らのセーフティネットにもなるわけだが、この親密圏内で関係が閉じがちだということも、一方では出てくる。

 

わたし自身、当事者とのあいだで共依存関係をつくってしまいがちだった。個人的な話になるが、わたしは自分の家族と良い関係を持てていない。物心ついたときから、不満と鬱憤の吹き溜まりのような環境で息をしながら、言葉や肉体的な暴力を受けながらも、その加害者でもある母親の、「唯一の理解者」というポジションをとることで自分の身を守ってきた。そのように屈折してしか、「安全」や「安心」は得られないものだという日常を生きたおかげで、大人になってからも、人と対等に信頼し合うということがどういうことなのか理解ができなかったり、恋愛関係にも、その屈折したあり方を持ち込んでしまったりしてきた。話を介護に戻すと、介護の場面においても、当事者と自分との関係性が、母親と自分との関係性の焼き直しのようになっていることに気がつくことがあり、愕然とした。おそらく、母親の、自分への追いすがり方を、当事者の中にわたしが見てしまっていたのだと思う。「この人には自分しかいない」と思いこむことで、わたしはわたし自身の尊厳を保とうとしていた。

 

でも、何のことはない、冷静になってみれば、介護の現場で「自分しかいない」わけはなく、実の母親は今もたくましく生きている。わたしが「尊厳」だと思っていたものは、尊厳でもなんでもなく、恐怖によって縛られていただけだった。その場がなくなったら生きていかれない、と思っていたのは、相手ではなく、自分のほうだったのだ。もちろん、子どものときには、実際にそうであったからこそ、その屈折した仕方を採用して生き延びてきたのだけれど、そうやって、恐怖を捻じ曲げて解釈しなければ生きていかれない状況というのは、大人になった今では、そうそうあるものでもない。それなのに、それと似たような状況を嗅ぎ取ってわざわざ出掛けていってしまうクセは、いまだに自覚するときがあるけれど。

 

話を戻そう。記事の最後で、六車さんは、「介護の世界はすごく閉じられているようにも感じます。多くの目にさらされない世界では虐待も起こり得る。外に開いていくこと、いろんな経験をへた人に関心をもって入って来てもらうことが大事です。民俗学を学ぶ後輩にも来てほしい。そうすれば、介護の現場は、もっと豊かな世界になっていくはずです」とおっしゃっている。介護の現場が閉じられてしまうのは、そこへ関心の目がいかないという外側の理由もあるのはもちろんだけど、ここに書いてきたような、内側から閉じてしまうような心理的な側面が及ぼしている影響も、大きいように思う。この社会の成員ひとりひとりが、いつ自分が弱者になるかもれず、また現に弱者でもあり、さらに、誰かにとっての強者でもあるという自覚を持っていけるような、懐の深い人間性を育んでいくことが、遠回りなようであっても、「もっと豊かな世界」につながっていく。わたしは、そのように思う。