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弱きもの。

ここにきて、足のむくみがヒドイ。36週までの検診では、毎回浮腫は-(マイナス)できていたのに、37週に入った途端、足首に肉の輪ができた。それから、足の甲は膨れ上がり、その先についている5本の指もぷっくり。な、なんだコレは、だれの足だ、と自分の足の変貌 っぷりに慄いてオットに見せると、「うちの父親が死ぬ前にそんなんなってた」だの、「末期癌患者の足みたい」だの、そういうことを言う。検診時に、あの、足のむくみがひどいん ですが、と相談してみるも、尿蛋白は-だし、とりあえず異常ではないとのことで、湯船につかることと、運動を勧められた。人生の諸先輩方曰く、温泉に入ったら一発だ!とのことだけど、ちょっと温泉には出掛けられないので、せっせとうちの湯船に浸かり、入りながらリンパマッサージをし、また、失眠へのお灸がいいというので毎日お灸を据え、寝るときには足を高くして寝ている。その甲斐あって、2,3日前までは象のようだった足も、今は子象の足ぐらいにはなった。


というわけで、臨月である。


正確には37週で、いよいよ正産期に入った。つまり、もう、いつ産まれてもいいですよ、ということだ。初産は遅れるからねェ、と、年配の方や経験者は判を押したようにみんな言うが、実際にはもういつ生まれても、一応お腹の中のヒトはこの外界で生きていけるわけで、友人の、予定日よりも2週間早く産まれました!という記事を昨日facebookで見たところだ。しかし妊娠するまで、36週までは早産といわれていて37週からを正産期と呼ぶ、なんてことはまったく知らなかった。知らなかったことはそれだけではない。妊娠してからの自分の身体の変化が劇的で、驚きの連続である。妊娠前は拳大しかない子宮が巨大化し、胃を押し上げ腎臓や膀胱を圧迫し、胸焼けするわオシッコは近くなるわ、リラキシンというホルモンが出るおかげで、あちこちの関節や靭帯がゆるゆるになるわ、そうして、身体だけじゃなく、妙に怒りっぽくなったり、悲観してみたり、わけもなく涙がぽろぽろ出てみたり、「産む」ということのためにこれだけの心身の機能が、自分にも知らずに備わっていたなんて、ちょっと感動する。ふだん、「自分」などと思っている自我なんて、ほんとにちっちゃくて、「自分」とさえ意識されない部分が、粛々と命を迎え、育む準備を整えてくれている、そう思うと、今まで「自分」と認識してこなかった「自分」に対して申し訳ないような気持ちと、「自分」に対する愛おしさと、もっというと、「自分」を越えたところにある、命に対する畏敬の念というものが、湧き上がってくる。


実を言うと、わたしは10代・20代前半と、自分の女性性とうまく折り合えないでいた。スポーツに打ち込んでいたこともあって、毎月やってくる月経に伴う不調はネガティブな意味しか持たなかったし、スポーツの場面だけでなくとも、自分の心身をコントロールできて、いつでも最大限の力を発揮できることに重きを置いていた。「弱さ」は文字通り弱点で、克服するべきもの、と思っていた。でも、お腹の中に命を授かって過ごしてきたこの10か月近く、身体の内側からのシグナルに耳を澄まし、小さな変化に一喜一憂するなかで、「弱さ」ということに対する感覚が、すっかり変わってしまったように思う。ひとつには、自分の身体が妊娠で一時的に不自由になることで、電車に乗ったり、買い物をしたりという、普段なんでもなくできていたことが恐かったり不便であったりして、自分自身が社会的な弱者であることを体験したこと、そして、くりかえしになるけれど、嵐のように変化する自分の気分や体調に注意しながら過ごす毎日が、これから産まれてくるふにゃふにゃの命に対して準備しているようで、「弱さ」は、乗り越えるものでもなく、ねじ伏せるものでもなく、それありきのもの、そこからこそ命が湧き出てくる源のように感じるようになった。


産まれてくる中のヒトも、女である。押し付けたくはないけれど、わたしのように屈折せずに、変化に富む女という性のおもしろみを思い切り味わってほしいなぁと思う。それにはまず、自分がそうしていないとね。今、自分の中のオンナが楽しい。